ネるものなのだろうか。しかしグーセフ夫婦はあっさりしたいい人間なのだ。伸子は自分をぐっとおちつけようとつとめるのだったが、ちょうど水をたたえた円筒の中でフラフラ底から浮上って来るおもちゃの人形のように、いつの間にか伸子の体も心も、深い寂寥の底から浮きあがって一心に寂しさを思いつめているのだった。淋しさははげしくて、ぬけ道がないのに、奇妙なことにはその淋しさにちっとも悲しさや涙ぐましさがともなっていなかった。伸子を淋しくしているそのがらんとした部屋がそうであるとおり淋しさは隅々まで乾いていて、コンクリートの乾燥してゆくにおいに滲透されているのだった。乾ききって涙ぐみもしない淋しさ。それは伸子にとって勝手のしれない淋しさだった。二つの黒目が淋しさでこりかたまったような視線を窓ガラスに釘づけにしている伸子の髪が、その晩は風変りだった。スタンドのかさを買う道で、伸子はクズネツキー橋の行きつけの理髪店によった。そこは男の理髪師ばかりでやっていて、評判がいいだけにいつもこんでいた。伸子の番がきたとき、年とって肥った理髪師は、ただ刈りあげて、という伸子の註文を、
「毎度こうなんでしょう? あんまり簡単すぎますよ」
と云いながら、白い布でくるまれた伸子の背後で鋏を鳴らした。
「御婦人の髪の毛は、羊の毛とちがいましてね、バーリシュニャー(お嬢さん)ただ刈りさえすればいいってわけのもんじゃありません――まあためしにやらせてごらんなさい」
 肥った理髪師は、体で調子をとりながら次から次へと鏝をとりかえて、伸子の髪にあてて行った。鏡の上に動いている理髪師の白くて丸っこい手もとを見ていても、自分の髪がどんな風にできあがってゆくのか、伸子には見当がつかなかった。
「わたしは、あんまり手のこまない方がいいのよ」
「ハラショー、ハラショー。こわがりなさるな」
 やがて、
「さあすみました! いかがです?」
 闘牛のマンティラでもさばくような派手な手ぶりで、伸子の上半身をすっぽりくるんでいた白い布をとりのけると、肥った理髪師は、ちょっと腰をかがめて、伸子の顔の見えている同じ高さから鏡の中をのぞいた。そして、
「トレ・ビアン!」
 フランス語で自分の腕をほめた。
 鏡の中の伸子は、頭じゅうに泡だつような黒い艷々したカールをのせられているのだった。それは似合わないこともないが、似合いかたに全く性格がなかった。女が、その年ごろや顔だちでただ似合うという平凡な似合いかたにすぎなかった。伸子は、鏡の前へ立ったまま、手をやって、ふくらんでいる捲毛の波をおさえつけるようにした。
「いけません、いけません。そのままで完全です」
 伸子はそんな髪を自分として突飛だと思った。だけれども、女は髪で気がかわると云われるから、もしかしたら淋しさを追っぱらう何かの役に立つかしらと思った。髪は祭のようだったが、伸子が雪の降る夜のガラス窓を見ている眼は黒い二つのボタンのようにゆうべと同じ淋しさで光っている。
 その晩はめずらしく早めに帰って来ていたグーセフの細君が、ノックして伸子の室へ入って来た。
「邪魔してごめんなさい。外套を出さして下さいね」
 一つしかない衣裳箪笥は、伸子のかりている室におかれていた。伸子とおもやいに使う、という約束だったが、伸子は自分のスーツ・ケースをディヴァンの横へ立て、外套は釘にかけていた。いかにも一時的なそういうくらしかたそのものが、なお伸子をそこになじませないのだということを伸子は心づいていなかった。
「あした、わたしどもお客に招かれているんです」
 白木綿のブラウスに黒いスカートのグーセフの細君は、たのしみそうに云って、衣裳箪笥をあけた。そして、その中に彼女のもちものとして一枚かかっていた大きな毛皮外套をとり出した。グーセフの細君は、ハンガーごとその毛皮外套を片手でつり上げ、すこし自分からはなして眺めながら、
「ニェ・プローホ(悪くない)」
と云った。
「わたしに似合いますか?」
 顎の下へその毛皮外套を当てがって伸子の方を向いた。伸子はノックがきこえたとき、ものが手につかず淋しがっている自分をその室の中に見出されるのがせつなくて、さも何かしかけていたようにデスクのまわりに立っていたのだった。伸子は、
「着てみせて」
といった。
「よく似合います」
「よかったこと」
 細君は伸子がひそかに気にしたようには、伸子の髪の変化に注意をはらわず毛皮外套を着ている腕をのばし、厚く折りかえしになっているカフスのところを手で撫でながら、
「モストルグには、もっとずっと上等の毛皮外套が出ていたんです。でも、そういうのはひどくたかいんです」
と云った。
「わたしたちは、当分これで間に合わせることにきめたんです」
「結構だわ。いい外套ですよ」
 グーセフたちは今年の冬は組合住宅へ住むようになった。そして、木綿綾織の裏がついた綿入外套でない毛皮外套を初めて着て夫婦でお客に招かれてゆけるようになった。グーセフの細君の生活のよろこびは、ノヴォデビーチェの新開町そのものに溢れている新生活のよろこびだった。ルイバコフの細君は決して身につけていない飾りけなさで、また遠慮ぶかいルケアーノフの細君にはできないあけっぱなしの単純さで、保健婦グーセフは何と気もちよく彼女たちの生活の向上を伸子にまでつたえるだろう。一面から云えば、この部屋がたえがたくがらんとしているのだって、ソヴェトにおける急速な勤労者生活の向上の結果なのだと思うのだった。
 毛皮外套をかかえてグーセフの細君が出て行ってしまうと、伸子はふたたび、緑色の灯かげが動かないと同じように動かない淋しさにとりまかれた。グーセフの細君には、彼女の下宿人がこんなに、たっぷり空気のある[#「たっぷり空気のある」に傍点]部屋にいて、どうしてそんなに淋しがる必要があるのか、しかも淋しがっていることをどうしてだまってこらえていなければならないのか、それらのことは全然想像もされていないのだった。そして、伸子自身にも、その暖く乾いた淋しさにそれほど苦しみながら、なぜ一日一日を耐えて見ようとして暮しているのか、わかってはいなかった。伸子は、素子が、一ヵ月前払いしているということに呪文をかけられていた。その期限が来るまでは、としらずしらず身動きを失っていて、しかもその状態を自分で心づいていないのだった。

        九

 その年の十二月三十一日の晩、伸子と素子とは大使館の年越しに招かれた。漁業関係の民間の人々などもよばれていて、伸子ははじめてその夜の客たちにまじって麻雀をした。伸子のわきに椅子をもって来てルールや手を教えてくれる財務官の指導で、伸子はゲームに優勝した。
「これだから、素人はこわいというのさ」
 いつもきまった顔ぶれで麻雀をしているらしい大使館の人たちが、勝ったことにびっくりしている伸子をからかって笑った。
「佐々さん、白ばっくれるなんて罪なことだけはしないで下さいね」
「わたし、ほんとに今夜はじめてなのに――。ねえ」
 伸子が上気した顔をふりむけて念をおすのを、素子はわざと、
「わたしはそんなこと知らないよ」
とはぐらかしてタバコをふかした。その夜中に、伸子たちは珍しい日本風の握り鮨《ずし》をたべた。
 一九二九年の元旦、朝の儀式が終ってからまた暫く大使館で遊んで、伸子が素子といっしょにルケアーノフの部屋へかえったのは午後五時ごろだった。
 ひとやすみして、伸子はノヴォデビーチェの自分の部屋へかえろうとしているうちに、胃のあたりがさしこむように痛んで来た。
「あんまり珍しいお鮨をたべたり、麻雀で勝ったりしたバチかしら……」
 冗談のように云いながら、伸子は素子のベッドにあがって、壁へもたれ指さきに力を入れて痛い胃の辺をおした。
「冷えたんだろう」
 素子が、湯タンポをこしらえて来た。
「足をひやしていたんじゃなおりっこない。暫く横になっていた方がいいよ」
 着たまま毛布の下へ入り、湯たんぽを足の先、胃のうしろと、かわりばんこに動かして伸子は体を暖めようとした。
「どこも寒くないのに……」
 痛みはつのって、夜になると、痛いのは胃なのか、それとも体じゅうなのかわからないほどひろがり、激烈になった。伸子は、痛みにたえかねて首をふりながら絶え絶えの泣き声で、
「ねていられない」
とベッドの上におきあがった。腹の中がよじられるように痛み、それにつれて背中じゅうが板のようにこわばった。起きていても苦しく、ねていることもできなかった。伸子はうめきながら素子の手をつかまえて、それを脇腹だの苦痛でゆがんだ顔などにあてながらベッドの上で前へかがみ、うしろにそりした。

        十

 明るすぎる電燈の光が顔の真上からさしている。伸子は、やっときこえる声で、
「まぶしくて」
とつぶやいた。伸子の瞼の上にたたんだハンカチーフのようなものがのせられた。伸子にだけくらやみが与えられた。そのくらやみにもぐっているような伸子の耳のつい近くで絶え間なく話し声がしている。話しているのは女と男とだった。彼等はロシア語でない言葉で話している。ゴットとかゼンとかミットとか。ドイツ語なんだろうか。女は入れ歯をしている。ああいうシュッ、シュッという音は入れ歯をした人間だけが出す音だ。いつまでしゃべるんだろう。もうさっきから無限にずいぶんながくしゃべっている。しゃべりつづけているようだ。伸子は、話し声をうるさく感じながら、同時に胴全体をくるまれたあつい湿布はたしかにいい心持だと思った。しきりに口が乾いた。伸子がそれを訴えるたびに、ふくろをむいて、お獅子にしたミカンが伸子の唇にあてがわれた。ミカンの汁を吸わすのは素子だ。見ないだってそれはわかっている。ミカン――マンダリーン。マンダリーンチク。プーシュキンは、どうしてあんなにたくさん果物の名を並べたんだろう。アナナースとマンダリーン。それを、素子が韻をひろって、雑巾のこまかい縫めのように帳面のケイをさして行く。おかしなの。詩を韻だけで書くなんて――愚劣だ。
 やがて伸子にだけ与えられている暗やみの中で、素子が、ミカンここへおいとくからね、と云った。またあした午後来て見るからね、と云った。そして素子はいなくなった。男の声と女の声との、ごろた石の間をゆくような発音の会話はまだつづいている。

 目をあいて、伸子は自分のおかれている病室の早い朝の光景を見た。同時にはげしい脇腹の痛みを感じた。ベッドのわきの小テーブルの上にあるベルを鳴らして便器をもらった。雑仕婦が用のすんだ便器をもって病室を出てゆくと、隣りのベッドの上に起きあがっていた中年の女が、
「こういうところで、ものをたのむときにはブッチェ・ドーブルイ(すみませんが)といった方がいいんですよ」
と教えた。
「あのひとたちはみんな忙しいんですからね」
「ありがとう」
 ブッチェ・ドーブルイと云うとき、女の声は入れ歯の声だった。伸子はゆうべのまぶしさとうるささとがこんがらかっていた気持を夢のような感じで思いだした。
 素子が午後になって来た。
 伸子の運びこまれたのはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学の附属病院だった。面会時間が午後の二時から四時までだった。伸子の胆嚢と肝臓とが急性の炎症をおこしているのだそうだった。
「胆嚢って、ロシア語で何ていうの」
「ジョールチヌイ・プズィリだよ」
「ふーん。ジョールチヌイ・プズィリ?」
「たって来る前、ぶこ、胃|痙攣《けいれん》みたいだったことがあったろう、あのときから少々あやしかったらしいね」
「どうして、炎症をおこしたの?」
「わからないとさ、まだ」
 全身こわばって身うごきの出来ない伸子は[#「伸子は」は底本では「伸は子」]、二つの重ねた白い枕の上に断髪の頭をおいたまま、苦痛のある患者につきものの鈍い冷淡なような眼つきで、フロムゴリド教授をじろじろ観察した。フロムゴリド教授は、何てごしごし洗った、うす赤い手をしているんだろう。その手を、白い診察衣の膝に四角四面において、鼻眼鏡をかけて、シングルの高いカラーに
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