て来た。
「あれは、なに?」
 若い動物がぴくりとしたように伸子が耳をたてた。
「マルセイエーズじゃない?」
 粉雪の夜をとおして、どこからかゆっくり、かすかに、メロディーが響いてくる。
「ね、あれ、なんでしょう?」
 秋山が、一寸耳をすませ、
「ああ、クレムリンの時計台のインターナショナルですよ」
と云った。
「十二時ですね」
 きいているとやがて、重く、澄んだ音色で、はっきり一から十二まで時を打つ音がきこえて来た。金属的に澄んで無心なその響は、その無心さできいているものを動かすものがあった。
「さあ、とうとう明日《あした》になりましたよ、そろそろひき上げましょうか」
 みんないなくなってから、伸子は、カーテンをもち上げて、その朝したように、またそとをみおろした。向い側の普請場を、どこからかさすアーク燈が煌々《こうこう》とてらし、粉雪のふる深夜の通りを照している。銃を皮紐で肩に吊った歩哨が、短い距離のところを、行って、また戻って、往復している。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は眠らない。伸子はそう感じながら長い間、アーク燈にてらし出されて粉雪のふっている深夜の街を見ていた。

        二

 一九二七年の秋、ソヴェト同盟の革命十周年記念のために文化上の国賓として世界各国からモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ招待された人々は、凡《およ》そ二十数名あった。そのなかには、第一次ヨーロッパ大戦のあと「砲火」という、戦争の残虐にたいする抗議の小説をかき、新しい社会と文学への運動の先頭に立っていたフランスのアンリ・バルビュスなどの名も見えた。日本から出席した新劇の佐内満その他の人々は、祝祭の行事が終った十一月いっぱいでモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を去り、佐内満は、ベルリンへ立った。伸子たちがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へついた十二月の十日すぎには、祭典の客たちの一応の移動が終ったところだった。外の国の誰々が、この行事の終ったあともなおモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にのこったのか、伸子たちは知らなかったが、ともかく秋山宇一と内海厚は、なお数ヵ月滞在の計画で、瀬川雅夫は年末に日本へ立つまで、いのこった。これらの人々が、ボリシャアヤ・モスコウスカヤというホテルから、パッサージ・ホテルへ移っていた。秋山宇一に電報をうち、その人に出迎えられた伸子たちは、自然、秋山たちのいたホテル・パッサージの一室に落つくことになった。
 伸子の心はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]暮しの第一日から、ここにある昼間の生活にも夜の過しかたにも、親愛感と緊張とで惹《ひ》きつけられて行った。伸子の感受性はうちひらかれて、観るものごとに刺戟をうけずにられなかった。伸子は先ず自分の住んでいる小さな界隈を見きわめることから、一風かわった気力に溢れたモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]という都市の生活に近づいた。
 クレムリンを中心として八方へ、幾本かの大通りが走っている。どれも歴史を辿れば数世紀の物語をもった旧い街すじだが、その一本、昔はトゥウェリの町への街道だった道が、今、トゥウェルスカヤとよばれる目貫きの通りだった。この大通りはクレムリンの城壁の外にある広い広場から遠く一直線にのびて、その途中では、一八一二年のナポレオンのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]敗退記念門をとおりながら、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]をとりかこむ最も見事な原始林公園・鷲の森の横を通っている。
 このトゥウェルスカヤ通りがはじまってほんの五つか六つブロックを進んだ左側の歩道に向って、ガランとして薄暗い大きい飾窓があった。その薄く埃のたまったようなショウ・ウィンドウの中には、商品らしいものは何一つなくて、人間の内臓模型と猫の内臓模型とがおいてあった。模型は着色の蝋細工でありふれた医学用のものだった。ショウ・ウィンドウの上には、中央出版所と看板が出ていた。しかし、そこはいつ伸子が通ってみても、同じように薄暗くて、埃っぽくて、閉っていて、人気がなかった。この建物の同じ側のむこう角では、中央郵便局の大建築が行われていた。その間にある横丁を左へ曲った第一の狭い戸口が、伸子たちのいるホテル・パッサージだった。
 オフィス・ビルディングのようなその入口のドアに、そこがホテルである証拠には毎日献立が貼り出されていた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は紙払底がひどくて、伸子たちはついてすぐいろんな色の紙が思いがけない用途につかわれているのを発見したが、その献立は黄色い大判の紙に、うすい紫インクのコンニャク版ですられていた。伸子がトゥウェルスカヤ通りからぐるりと歩いて来てみると、陰気な医料器械店のようなショウ・ウィンドウをもった中央出版所も、パッサージ・ホテルも、その一画を占めている四階建の大きい四角な建物の、それぞれの側に属していることがわかるのだった。
 伸子たちはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へついて三日目にホテルで室を代った。そして四階の表側へ来た。広いその室の窓からは、伸子に忘られない情景を印象づけた雪の深夜の工事場を照すアーク燈の光や、大外套の若い歩哨の姿はもうなくて、壊れた大屋根の一部が見られた。十二月の雪の降りしきる空と、遙か通りの彼方の屋根屋根を見わたしながら近くに荒涼と横わっている錆びた鉄骨の古屋根は、思いがけずむき出されている壊滅の痕跡だった。伸子が窓ぎわに佇んで飽きずに降る雪を見ていると、あとからあとから舞い降りる白い雪片が、スッスッと鉄骨の間の暗い穴の中へ吸いこまれてゆく。雪は無限に吸いこまれてゆくようで、それを凝《じ》っと見ていると目がまわって来るようだった。同じ絶え間のない雪は、隣りの大工事場の上にも降りかかっている。そこでは昼夜兼行で建築が進行している。深夜はアーク燈が煌々とそこを照している。伸子はこういう対照のつよい景色に、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]生活の動的な色彩をまざまざと感じるのであった。
 荒廃にまかせられている大屋根は、もとガラス張りの天井で、トゥウェルスカヤ通りの勧工場であった。だから、パッサージ(勧工場)ホテルという田舎っぽい名が、この小ホテルについているのだろう。質素というよりも粗末なくらいのこの小ホテルは、ドアに貼り出してある献立をのぞいては入口にホテルらしいところがないとおり、建物全体にちっともホテルらしさがなかった。表のドアの内側は、一本の棕梠《しゅろ》の鉢植、むき出しの円テーブルが一つあるきりの下足場で、そこから階段がはじまっていた。大理石が踏み減らされたその階段を二階へ出ると、狭い廊下をはさんで、左右に同じような白塗りのドアが並んでいる。一室の戸は夜昼明けはなされていて、そこがこのホテルの事務室だった。二階から四階までの廊下に絨毯《じゅうたん》がしかれていた。黒地に赤だの緑だので花や葉の模様を出した、あの日本の村役場で客用机にかけたりしている机かけのような模様の絨毯が。――
 伸子は、この絨毯に目がついたとき、そのひなびかげんを面白がり、その絨毯を愛した。こけおどしじみた空気は、この小ホテルのどこにもなかった。人々は生活する。生活には仕事がある。ホテルの各室は、生活についてのそういう気取りない理解に立って設備されていた。どの室にも、お茶をのんだりする角テーブル一つと、仕事用の大きいデスクが置かれていた。デスクの上には、うち側の白い緑色のシェードのついたスタンドが備えつけてあり、二色のインク・スタンドがあった。ロシア流にトノ粉をぬって磨きあげられた木の床《ゆか》の、あっちとこっちにはなして、鼠色毛布をかけた二つの寝台がおかれている。
 こういう小ホテルのなかに、おそらくは伸子たちにとって特別|滑稽《こっけい》な場所がひとところあった。それは浴室だった。はじめて入浴の日、きめた時間に素子が先へ二階まで降りて行った。すると間もなく、部屋靴にしているコーカサス靴の木の踵《かかと》を鳴らしながら素子が戻って来た。
「どうしたの? わいていなかった?」
 風呂は、前日事務所へ申しこんでおいて、きまった時間に入ることになっているのだった。
「わいちゃいますがね、――ちょいと来てごらんよ」
「どうしたの?」
「まあ、きてみなさい」
 白い不二絹のブラウスの上に、紫の日本羽織をはおっている伸子が、太い縞ラシャの男仕立のガウンを着ている素子について、厨房のわきの「浴室」と瀬戸ものの札のうってある一つのドアをあけた。
「――まあ……」
 伸子は思わず、その浴室のずば抜けた広さに笑い出した。古びて色のかわった白タイルを張りつめた床は、やたらに広々として、ところどころにすこし水のたまったくぼみがある。やっぱり白タイル張りの左手の壁に、ひびの入って蠅のしみのついた鏡がとりつけてあって、その下に洗面台があった。瀬戸ものの浴槽は、その壁と反対の側に据えられているのであったが、そんなに遠くない昔、すべてのロシア人は、こんなにも巨大漢であったというのだろうか。長さと云い、深さと云い、古びて光沢のぬけたその浴槽は、まるで喜劇の舞台に据えられるはりぬきの風呂ででもあるように堂々と大きかった。焚き口とタンクとが一つにしくまれている黒い大円筒が頭のところに立っていて、焚き口のよこに二人分の入浴につかう太い白樺薪が二三本おかれている。このうすよごれて、だだっぴろい浴室を、撫で肩でなめらかな皮膚をもった断髪の素子が、自分のゆたかで女らしい胸もとについて我から癪《しゃく》にさわっているように歩きまわりながら、時々畜生! と云ったりするのを思うと伸子は、実にユーモアを感じた。しかし、実際問題として、どうしたらよかったろう。伸子は素子よりももっと背が小さいから、普通の大さの浴槽でも、さかさに入って湯のカランのある方へ頭をもたせかけて、というよりも、ひっかけて、いつも入っているのに。
「――わたし溺《おぼ》れてしまう」
 二人は、到頭いちどきに入ることにした。たがいちがいにしてならば、裸の体が小さくても滑りこむ危険はふせげるのであった。気候がさむくて、その上、夜は芝居だの、夜ふかしの癖のあるモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の人たちは、午後のうちに入浴する習慣らしかった。十二月のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では、昼間という時間が、一日に八時間ぐらいしかなかった。しかも雪のひどく降る日には電燈をつけぱなしにしたままで。

 伸子たちは、その朝も十時ごろまでには朝の茶をすました。掃除女が室の片づけを終るのを待って、素子は窓に向ったデスクの前に、「プラウダ」と「イズヴェスチヤ」とをもって納った。伸子は、外套を出してベッドの上におき、珍しいことに衣裳タンスについた鏡に向って、褐色フェルトの小さい帽子のかぶりかたを研究していた。
 この小帽子については、伸子にとって第二の帽子物語があった。伸子が日本からかぶって来た黒い帽子は、ずっとこれよりも上等で、色どりの美しい細いリボンであしらわれていた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へついて数日すると、伸子にはその帽子がきれいすぎることで気に入らなくなった。雪のふるモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で女のひとたちは髪の上から毛織のショールをかぶったり、鳥うち帽をかぶったりして、元気に歩いていた。普通の婦人帽をかぶっている人たちにしろ、どれもごく単純なフェルト製の小型のものだった。土地の人は土地の気候にふさわしいかぶりものをかぶっているのだった。色の美しいリボンをあしらった伸子の装飾的な帽子に雪がついて、しめりで形のはりを失ったとき、その弱々しさは不甲斐なく見えて伸子に腹立たしい気持をおこさせた。雪のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は、チェホフが心からそれを愛したようにきびしいけれども素晴らしい季節だのに。――
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1
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