纃ホの娘のオリガが一晩どまりで来ることもある。赧ら顔に鼻眼鏡をかけ、頭を青い坊主刈りにして、いくらかしまりのない大きな口元に愛嬌を浮べながら社交的に話す技師が現れると、パンシオン・ソモロフの食堂の空気は微妙に変化した。日ごろは、いい意味でさえも野心の閃きというようなものが無さすぎる食卓に、技師は一種の騒々しさ、ソヴェト風な景気よさのような雰囲気をもたらした。細君であるリザ・フョードロヴナよりもむしろ軽薄で俗っぽい人物に見える技師がテーブルに加わると、その隣りに席のきまっているヴェルデル博士とリジンスキー教授の態度が目にとまらないくらい、より内輪になった。
 食堂のこういう小風景にかかわりなく、パンシオン・ソモロフで、いつもたゆまず同じように働いている人があった。それは女中のダーシャだった。パンシオン・ソモロフの人々の生活や感情にかかわりなく、日曜日ごとに天気さえよければ陽気にガルモーシュカを奏し、歌い、白藍横ダンダラの運動シャツの姿や赤いプラトークを大公園の樹の間がくれにちらちらさせて、日の暮まで遊んでゆく大群集があった。その群集について現れる向日葵の種売り、アイスクリーム屋が鉄柵のそとへ並んだ。その大群集や物売りたちは、日曜日になると、デーツコエ・セローの鬱蒼とした公園にうちよせるソヴェト生活のピチピチした波だった。伸子は、その波の波うちぎわにいる自分を感じながら、二つに畳める円テーブルの一つのたたみめを壁にくっつけて、ベッドに背中がさわりそうな僅のすき間で毎日少しずつ小説を書いた。

        三

 八月にはいって間もない或る雨の日のことであった。きのうも一日雨であった。しっとり雨をふくんだ公園の散歩道にパラパラと音をたてて木立から雨のしずくが落ちかかり、雨にうたれているひろい池の面をかなり強い風が吹くごとに、噴水が白い水煙となってなびきながらとび散った。
 人っこ一人いない雨の日の大公園で、噴水を白く吹きなびかせている風は、パンシオン・ソモロフのヴェランダのよこの大楓の枝をゆすって、雨のしずくを欄干のなかまで吹きこませた。この北の国の夏が終りに近づいた前じらせのように大雨が降っている古いヴェランダの端から端へとぶようにして、老嬢のエレーナと伸子とがマズルカを踊っていた。いつものとおり黒ずくめのなりをしたエレーナの細くて力のある手が、くいこむようにきつく伸子のふっくりした若い手をとらえていた。伸子には鉤《かぎ》のように感じられるその手でエレーナは伸子をリードして、黒いスカートをひるがえしながら、頭をたかくもたげ、伸子にはどこにも聴えていないマズルカの曲を雨と風とのなかにききながら踊る。ほそい赤縞のワンピースを着ている東洋風になだらかな丸い曲線をもった伸子の体は、エレーナの大きく黒く蝙蝠《こうもり》がとぶような動きに絡んでギャロップした。はげしい運動で薄く赧らんだ伸子の顔の上に恐怖があった。エレーナは、ほんとに発作のように立ち上って、教えてあげましょう、マズルカというものはこういう風におどるんです、と伸子の手を、いや応なくしっかりつかまえて踊りだした。そのときエレーナは伸子に、自分の若かったときの話をしていたのだった。オデッサで、大きい実業家だったエレーナの父親は、一人娘であったエレーナのために時々すばらしい宴会や舞踏会を開いた。昔、と云うのは革命前のことであるけれど、オデッサは、ロシアの小パリで、ペテルブルグよりも早いくらいにパリの流行が入った。エレーナはフランス製の夜会靴をはき、音楽と歓喜のなかで夜が明けるまでマズルカをおどった。話しているうちにエレーナの瞳のなかに焔がもえたった。あなたマズルカを知っていますか? いいえ。ああ。――いまはマズルカさえちゃんと踊る人がなくなってしまった。エレーナはひとりごとのように呟いて公園の森の方を見ていたが、不意にカン※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ス椅子から立ち上り、教えてあげましょう。マズルカというものは、と伸子の手をつかまえて立ち上らせたのだった。
 いつも冷静に、厳粛にしているエレーナの黒服につつまれた細いからだには、こんな荒々しい情熱がひそんでいた。伸子はそのことにおどろかされた。エレーナとしては不意に中断されて、それっきりすっかり消えてしまった半生の最後に響いたマズルカの曲が、いまこの夏の終りの雨が降る人気ないヴェランダで伸子の手をつかんで立たせる衝動となってよみがえって来たのだろう。エレーナは非常に軽かった。彼女にはまだまだマズルカをおどるエネルギーがある。伸子はエレーナにリードされてヴェランダの床をギャロップしながらそう感じた。でも、いつ? そしてどこで? また誰とエレーナはマズルカを踊るだろう。彼女は昔よろこんで踊ったマズルカがあったことさえ今語ろうと思ってない。彼女にも憎悪があるのだ。ペラーゲア・ステパーノヴァの心臓のかわりに、エレーナは彼女のがんこな黒服をまとっている。説明ぬきで――説明するよりも雄弁に彼女が喪《うしな》ったもののあることを表徴して。折からさっと風がわたって来て大楓の枝がなびき、欄干の近くを踊りすぎる伸子の頬に雨のしぶきが感じられた。反対側の広間をよこぎって素子の来るのが見えた。真面目ないそいだ足どりで来た素子はヴェランダの伸子を認めると、手にもっている黄色い紙をふってみせた。エレーナもそちらへ注意をひかれた。マズルカの足どりは自然に消えて、エレーナと伸子とが片手はまだつなぎあったまま立ちどまったところへ、素子が、
「ぶこちゃん、電報だ」
 黄色い紙を細長い四角に畳んだものをわたした。
「電報? どこから」
「うちかららしい」
 伸子は、どういう風にエレーナの手をほどいたかも気づかないで、広間とヴェランダの境に立ったまま電報をひらいた。
 よみにくいローマ綴りを一字一字ひろった。シキウキチヨウアリタシ。――至急帰朝ありたし。――無言のまま二度三度、その文句を心の中にくりかえして見ているうちに、伸子は抵抗の自覚される心持になって来た。電文そのものが唐突で簡単すぎ、意味がつかめないばかりでなく、そういう唐突な電報でこんなに遠くで営まれている伸子の生活の流れが変えられでもするように思ううちのひとたちの考えが、苦しかった。
 伸子はエレーナに挨拶して、のろのろ素子と広間の寄木の床を部屋の方へ歩いた。
「どういうんだろう」
 電文をくりかえしてよんだ素子が、それを伸子にかえしながら、いろいろの場合を考えて見るように云った。
「何があったんだろう」
「さあ……」
 動坂のうちの人たちとして、伸子にそういう電報を打つだけの何かはあったのだろう。しかし、伸子は、その動機を、すぐに、自分の生活を変えるだけ重大なものとしてうけとる気持になれなかった。
 廊下のはずれにある伸子の室まで二人で来て、伸子はベッドに腰かけ、もう一遍電報を見た。やっぱり、シキウキチヨウアリタシとしか書かれていない。
「何てうちは相かわらずなんだろう。電報まで電話そっくりなんだもの――伸ちゃん、一寸話があるからすぐ来ておくれ。――ここにいるものにすぐ帰れなんて……」
 素子はタバコに火をつけて、それをふかしながら、窓の外を見てしきりに考えている。動坂の家を出て別に暮すようになってから、多計代からの電話というと、伸子にはきかない先から用がわかる習慣になってしまった。ああ、もしもし伸ちゃんかえ。ぜひ話したいことがあるから、すぐ来ておくれ。多計代のいうことはきまっていた。
 はじめの頃、伸子は呼び出されるとりつぎ電話の口で、ほんとに何か火急な用が出来たのかと思って、当惑したりびっくりしたりした。家の戸締りをして、留守に帰って来る佃のために書きおきして、住んでいた路地の間の家から急いで歩いて動坂の家へ行った。多計代の坐っている食堂に入りかけながら、伸子が息のはずむ声で、
「何かおこったの」
というと、多計代は一向いそがない顔つきで、
「まあお坐り」
と云うのだった。そして、やがて切り出される話は、伸子が佃と暮していた間は、佃や伸子についての多計代の不満だったり、臆測だったりした。素子と生活しはじめてからは、一体、吉見というひとは、という冒頭ではじまる同じような多計代の感情だった。三度にいちどは、気の重い話のでないこともあって、そういうとき多計代はほんとにただ娘と喋りたい気になって、よび出す口実に用があると云っただけらしかった。
 いずれにせよ、多計代のすぐ来ておくれ、は伸子にとって一つの苦手であった。素子にとっても。――伸子はそうしてよばれると、じぶくって出かけて、その晩は駒沢の奥までかえれず、翌る日、素子にそのまま話しかねるような多計代との云い合いの表情を顔にのこして戻って来るのだった。
 シキウキチヨウアリタシ。その電文をよんだ瞬間、伸子は反射的にぐっと重しがかかって、その場から動くまいとする自分を意識した。
「しかしぶこちゃん、こりゃ放っておいちゃいけないよ」
 素子が妙に居すわってしまったような伸子に向って云った。
「ともかく電報うって見よう。――あんまりこれだけじゃ事情がわからないから」
「なんてうつ?」
 しばらく思案して素子は、
「事情しらせ、とでも云ってやるか」
と言った。
「それがいいわ。じゃ、すぐ打って来る、正餐までに」
「いっしょに行ってやろう」
 伸子と素子とは、人通りのたえている雨の大通りをデーツコエ・セローの郵便局まで出かけて、問い合わせの電報をうった。レイン・コートをもっていない伸子たちは、うすい夏服の前やうしろをすっかり黒く雨にぬらして帰って来た。
「ぶこのおっかさんなんか、わたしがこうやって却って気をもんでることなんか知りもしないんだから……」
 毒のない不平の調子で素子が云った。
「ぶこちゃんが、これを放ってでもおいてみろ。無実の罪をきるのは、わたしさ」
 東京から返事の電報が来るまでには少くとも二三日かかるということだった。伸子は、シキウキチヨウアリタシに気をわるくしながら、やっぱり返事が気にかかり、落付けず、快活さを失った。夜、素子の室で話したりしているとき、自然その方へ話が向いた。
「まあ、返事が来てからのことさ。次第によったら、いやでも帰らなけりゃならないかもしれないが……」
「ひとりで?」
「――お伴しなくちゃならないというわけかい」
 一人で帰ることがいや、いやでないよりも、伸子にとっては今ソヴェトから帰るということが、うけ入れられないのだった。
「先にね、ニューヨークから急に帰ったとき、やっぱり、こんな風だったのよ。母がね、お産をしなければならないのに、こんどは非常に危険だと医者に宣告された、と云って来たんです。わたしはたまらなく心配になってね、無理やり一人で帰って来てみたら、とっくに赤坊は生れてしまっているし、母はおきてけろりとしていたのよ」
 あのときの残念な心持、たぶらかされたような切ない心持を伸子はまざまざと思いおこした。ニューヨークで、伸子がアメリカごろの洗濯屋と夫婦になったとか、身重になって始末にこまって結婚したとかいう風聞になやまされた佐々の両親は、多計代の出産ということを口実に伸子がいやでも、大学での研究が中途だった佃をのこして帰って来なければならないように仕向けたことだった。そのときから八九年たった今になって見れば、親たちのばつのわるい立場も苦肉策も伸子に思いやることができた。それでも、父や母が、二十一ばかりだった伸子のまじりけない娘としての心配ごころをつかんで動かしたということについては、思いが消えなかった。伸子は思うとおりに生きようとして親たちに抵抗する娘ではあったが、他人のなかでもまれて育った女とちがって、そういう子供の時分から習慣になっている肉親のいきさつでは案外もろかった。
 至急帰朝ありたし、と云って来るからには、何かあるのだろう。だが、伸子は、こんども自分の子供っぽさであわてさせられるのは金輪際いやだった。
「まさか、お父さんがどうかされたんじゃないだろうね」
 老年の父親をもっている素子が
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