いつも虚心坦懐であることが必要です」
「吉見さん、あなたは第一日からなかなか辛辣なんですねえ」
 瀬川が、苦笑に似たように笑った。
「けれど吉見さん、ああいう文化施設はあっていいものだと思われませんか」
 そうきいたのは内海であった。
「それについちゃ異存ありませんね」
「施設と、そこで現実にやっている仕事の価値が、要するに問題なんじゃないですか」
「…………」
「ああいうところも、よそと同じように委員制でやっているから、一人の傾向だけでどうなるというもんではないんでしょう」
 内海の言葉を補足するように、秋山がつけ加えた。
「|ВОКС《ヴオクス》は、政治的中枢からはなれた部署ですからね。ああいう複雑な立場のひとを置くに、いいんでしょう」
 伸子は、みんなのひとこともききもらすまいと耳を傾けた。これらはすべて日本語で語られているにしても、伸子が東京ではきいたことのない議論だった。そして、きのうまでのシベリア鉄道で動揺のひどい車室で過された素子と伸子との一週間にも。
「どうしました、佐々さん」
 瀬川が、さっきから一言も話さずそこにいる伸子に顔をむけて云った。
「つかれましたか」
「いいえ」
「じゃあどうしました?」
「どうもしやしないけれど――早くロシア語がわかるようになりたいわ。|ВОКС《ヴオクス》の建物一つみたって、あんなに面白いんですもの。――ここは、いやなものまでが面白い、不思議なところね」
「いやなものまでが面白いか……ハハハハ。全くそうかもしれない!」
 同感をもって瀬川は笑い、彼の快活をとりもどした。

「これからはお互にかけちがうことが多いから、きょうは御一緒に正餐《アベード》しましょう」
 瀬川がそう提案した。ホテルの食堂は、階上のすべての部屋部屋と同じように緑仕上の壁を持っていた。普通の室に作られているものを、食堂にしたらしい狭さで、並んでいるテーブルには、テーブル・クローズの代りに白いザラ紙がひろげられて、粗末なナイフ、フォーク、大小のスプーンが用意されている。午後三時だけれど、夕方のようで、よその建物の屋根を低く見おろす二つの窓には、くらくなった空から一日じゅう、同じ迅さで降っている雪の景色があった。伸子たちがかけた中央の長テーブルの上には、花が飾ってあった。大輪な薄紫の西洋菊が咲いている鉢なのだが、花のまわり、鉢のまわりを薄桃色に染められた経木の大幅リボンが園遊会の柱のようにまきついて、みどりのちりめん紙でくるんだ鉢のところで大きい蝶結びになっている。白いザラ紙のテーブル・クローズ、粗末なナイフ、フォーク、そしてこの花の鉢。ロシアというところが、その大国の一方の端でどんなに蒙古にくっついた国であるかということを、伸子はつきない感興で感じた。
 うしろまでまわるような白い大前かけをかけ、余りきれいでないナプキンを腕にかけた給仕が、皆の前へきつい脂のういた美味《うま》そうなボルシチをくばった。献立《こんだて》はひといろで、海老色のシャツにネクタイをつけ、栗色の髪と髭とを特別念入りに鏝でまき上げているその給仕は、給仕する小指に指環をはめている。
 犢肉《こうしにく》のカツレツをたべながら伸子が思い出したように、
「正餐《アベード》では可笑しいことがあったわね――話してもいい?」
 素子をかえりみた。
「なにさ」
「わたしたちがハルビンへついたとき、もうロシア暮しに馴れるんだというわけで、『|黄金の角《ゾロトーイ・ローク》』へとまったんです。あすこは日本語も英語も通じないのね。おひるになったんで御飯たべようとすると、いまはまだ食堂があいていません、というんで、高価《たか》いスペシアルを部屋へとったの。七時頃、夕飯をたのむと、またそういうの。あれで二日ばかり、随分へんな御飯たべたわね」
「ああ、ロシアだけでしょうからね、正餐が三時から五時だなんていう習慣のところは――」
 秋山がそういうのを、瀬川が、
「そりゃ吉見さんにも似合わないぬかりかたでしたね」
と笑った。
「小説にだって正餐の時間はよく出て来るじゃないですか」
「――そこが、赤毛布《あかげっとう》の悲しさ、ですよ。あなたがただって、人知れず、似たようなことやって来たんじゃないんですか」
「わたしは大丈夫でしたよ」
 妙に含蓄のある調子で瀬川が力説したので、みんな笑い出した。
「ハルビンに、またどうしてそんなに滞在されたんです」
「猿の毛皮を買わなけりゃならなかったんですもの」
「猿の毛皮?」
「外套のうらにつける」
 その猿の毛皮について、伸子はいくらか悄気《しょげ》ていた。ハルビンでどうせ裏毛にするのだから、そのときちゃんと体に合わせればいいと、伸子の厚い黒|羅紗《らしゃ》の外套は、身たけなどをいい加減に縫ってあった。ハルビンのチューリンで、やすくて丈夫で、比較的重くもないという猿の毛皮を買ったとき、それを世話してくれたのは素子の友人の新聞記者であった。その場のなりゆきから、伸子は外套のたけをやかましく計らずに猿の毛皮をつけてもらってしまった。長すぎて幅もしっくりしない黒外套を重そうにひきずった小さい丸い自分の恰好を考えると、伸子は、他人の感じるユーモアを、われには微かにきまりわるく思っているのだった。
 デザートに出た乾杏や梅、なつめなどの砂糖煮をたべていると、瀬川が腕時計を一寸みて、
「秋山さん、こんやは|М《ム》・|Х《ハ》・|Т《ト》(モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]芸術座)へ行かれますか」
と、きいた。
「さあ……」
「切符、この間、あなたもおもらいでしょう?」
「あったかね――内海君」
「…………」
 内海は、首をかしげて黙ったまま思い出そうとするようにした。
「今夜は、『装甲列車』なんです――どうです、お二人は――みに行かれませんか」
 瀬川にそう云われて、芝居ずきの素子が、すこし上気した顔になった。
「よわったなあ」
と例の、下顎を撫であげる手つきをした。
「是非観たいけれど――今からじゃ、とても切符が駄目でしょう?」
 イワノフの『装甲列車』は日本に翻訳されていて、伸子も読んだ。
「切符は、わたしのところにありますよ」
「そりゃあ――それを頂けますか」
「丁度三枚あるから、お役に立てましょう」
 伸子は、
「うれしいこと!」
 心からよろこばしそうな眼つきをした。
「宿望の|М《ム》・|Х《ハ》・|Т《ト》が今夜観られるのは、ありがたいですね」
「そうそう、吉見さんはチェホフの手紙を訳しておられましたね」
 それで、素子が芸術座へ関心をもつ気持もなおよくわかるという風に瀬川が云った。そうきまると、秋山は言葉をおしまないで、その芝居の見事さを賞讚しはじめた。
「あれは、観ておくべきものですよ。実に立派です」
 小さい両手を握り合わすようにして強調する秋山を見て、伸子は、秋山宇一というひとは、どういう性格なのだろうと思った。けさ、|ВОКС《ヴオクス》へ行くときも、実際にそれを云い出し、誘ってくれたのは瀬川雅夫であった。瀬川がそれを云い出し、行くときまってから、|ВОКС《ヴオクス》訪問の重要さを力説したのは秋山であった。いま、このテーブルで、|М《ム》・|Х《ハ》・|Т《ト》の話が出たときも秋山は同じような態度をくりかえした。瀬川が話しはじめて、瀬川が切符をくれて、一緒に行くときまって、秋山宇一は|М《ム》・|Х《ハ》・|Т《ト》のすばらしさを力説した。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]芸術座は、瀬川が云ったとおり、ほんとにホテルから、じきだった。トゥウェルスカヤの大通りを、赤い広場と反対の左の方へ少しのぼって、ひろい十字路を右へ入ると、いくらも行かないうちに、せまい歩道の上に反射光線をうけて硝子|庇《ひさし》がはり出されているのが見え、雪の夜の暗い通りのそこ一点だけ陽気な明るさに溢れていた。うしろから来て伸子たちを追いぬきながら、一層元気に談笑して足を早めてゆく人々。あっち側から来て劇場へ入ろうとしている人々。劇場の前だけに溢れている明るさは、ひっきりなし降る雪片を白く見せ、そのなかを、絶えず黒い人影が動いた。それらの黒い影絵の人々がいよいよ表扉を押して劇場へ入ろうとする瞬間、パッと半身が強い照明を浴びた。そして、鞣《かわ》外套の茶色っぽい艷だの、女がかぶっているクリーム色のショールの上の赤や黒のバラの花模様を浮立たせている。
 その人群れにまじって伸子たちも防寒靴をあずけた。それから別のところにある外套あずかり所へ行って、帽子や外套をあずけた。伸子の前後左右には派手な花模様や、こまかい更紗《さらさ》、さもなければごくありふれた茶や鼠の毛織ショールなどをかぶって来た女たちが、それぞれに、そのショールをぬいでいた。ショールがぬがれると、その中からあらゆる種類のロシアの女の顔があらわれた。深い皺や、活々した皮膚や、世帯やつれのひそんだ中年の主婦の眼つきをもって。つづいて、曖昧な色あいのぼってりした綿入防寒外套がいかにもむくという感じで脱がれた。その中から女の体があらわれた時、急にしなやかであったかい一人の女がそこにむき出された新鮮な刺戟があった。
 瀬川の切符は、舞台に向って右側の中ほどにある棧敷《さじき》席だった。
「えらく晴れがましい場所なんですね」
 ひる間と同じ、きなこ色のスーツを着て来ている素子が、伸子と並んで最前列の椅子にかけながらうしろの瀬川に云った。
「|ВОКС《ヴオクス》でくれる切符は、どこの劇場のでも、大抵、棧敷席のようですよ」
「そりゃ、あなたがたは国賓だもの」
「ちょっと!」
 それを遮って肩にビーズの飾止めのついた絹服を着た伸子が素子の手の上に自分の手を重ねて押しつけながら、注意をもとめた。
「チャイカ(かもめ)がついている!」
「どれ?」
 伸子は身ぶりで舞台を示した。開幕前のひろい舞台にはどっしりと灰色っぽい幕がおりていた。その幕の左右からうち合わせになっている中央のところに、翼をはって空と水との間を翔《と》んでいるかもめ[#「かもめ」に傍点]が落付いた色調の組紐|刺繍《ししゅう》で装飾されているのだった。
「入口のドアにもついていたでしょう――気がついた?」
 地味な幕の中央に、かどを落した横長の四角にかこまれて、それだけがただ一つの装飾となっている鴎は、片はじをもぎとられて伸子のハンド・バッグに入っている水色の切符の左肩にも刷られていたし、棧敷席のビロードばりの手すりの上においてあるプログラムの表紙にもついている。芸術座は、チェホフの『鴎』で、現代劇の歴史にとって意味ふかい出発をした。その初演の稽古のときは、まだこの劇場が落成していなかったので、俳優たちはどこかの物置のような寒い寒い建物のなかで、ローソクの光をたよりに稽古した。それでも、あらゆる俳優が自分たちこそ本当の新しい芝居をするのだという希望と誇りに燃えていて、寒いことも苦にしませんでした。そうかいていたのはチェホフの妻であったオリガ・クニッペルだった。「チャイカ」は|М《ム》・|Х《ハ》・|Т《ト》の芸術的生命と切ってもきりはなせない旗じるしであった。
 こんなに科白《せりふ》のわからない芝居が、こんなに面白いという事実に伸子はびっくりした。『装甲列車』は伸子が前に読んでいたためにわかりよかったばかりでなく、練習をつみ、統一され、一人一人がちゃんとした俳優である芸術座の俳優たちは、実に演劇的な効果をもって一幕一幕とこの革命当時、国内戦にたたかった農民パルチザンの英雄的行動を描き出して行った。カチャーロフが扮した主人公エルシーニンが、第一幕では、全く農民の群集のうちにまぎれこんでいて、どこにいるかさえわからない存在であったのが、幕の進むにつれ、その地方の農民の革命的な抗争が緊迫するにつれ、彼のほんの小さい一つの行動、わずかの積極性の堆積から、次第に、そのパルチザン集団の指導者として成長して来る。『装甲列車』は、はじめっから一定の役割を負わされた劇の主人公というものはない芝居だった。一定の事件や行動
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