「|雪の下《ポド・スネージュヌイ》! 春の初花、お買いなさい、あなたのお仕合せのために」
 伸子はその花束を眺め、ポケットからチャックつきの赤いロシア鞣の小銭入れを出し、婆さんに三十五カペイキやって花束をうけとった。雪の下という花は、日本で伸子の知っている雪の下のけば立った葉とちがって、つるつるした団扇《うちわ》形の葉をもっていた。その葉を五枚ばかり合わせてふちどりとしたまんなかに、白菫に似たような肉あつの真白な花が数本あつめられている。いかにも雪の下から咲いた早春の花らしく茎のせいが低かった。手袋をはめた指先で摘むようにその小さい花束をもち、アパートメントの段をのぼって行きながら、伸子は顔をよせて香をかいだ。雪の下の真白い花はかおりらしい香ももっていない。それでも、これは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の春の初花にちがいなかった。伸子は、ガラスの小さい杯に水を入れて花束をそこにさした。そして、大机の自分の領分に飾った。ガラス杯の細いふちに春の光線がきらめいている。窓のそとのフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの丘の上は、そこも一面の雪どけで、不規則に反射する明るさのために大きな金の円屋根はひとしお金色にかがやいて見える。
 ――伸子は、ものを書きはじめた。

        二

 その日は日曜日だった。素子は、この頃たいてい毎日モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学の文科の講義をききに行っていた。その留守の間、伸子は一人をたのしく室にいた。そして伸子の旅費を出している文明社へ送るためにモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の印象記を書いていた。日曜は素子の大学も休みだし、従って一つしかテーブルのない室では伸子の書く方も休日にならないわけにゆかず、二人は、ゆっくりおきて、素子は背が高いからそっちに臥《ね》ているベッドの方を、伸子は背が低いからこっちに臥ているディヴァンを、それぞれ片づけていた。
 そこへドアをノックして、ニューラがギリシア式の、鼻筋のとおった浅黒い顔をだした。そして、なまりのつよい発音で、
「あなたがたのところへ、お客ですよ」
と告げた。
 伸子と素子とは思いがけないという表情で顔を見合わせた。誰が来たんだろう。二人はまだ起きたばかりでちゃんと衣服をつけていなかった。
「――仕様がないじゃないか!」
 素子が、ロシア風に、困ったとき両手をひろげるしぐさをしてみせながらニューラに云った。
「みておくれ、私たちはまだ着物をきていないんだから……どうかニューラ、お客の名をきいて来ておくれ」
 いそいで寝床のしまつをし終りながら、伸子が、
「朝っから誰なのかしら」
 不思議そうに云った。もし秋山宇一なら、こんな朝のうちに来るわけはなかった。まして、気のつく内海厚がついていて、伸子たちの寝坊は知りぬいているのだから。
 ニューラが戻ってきて、またドアから首をさし入れた。
「お客さんは、ミャーノってんだそうです。レーニングラードからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へついたばかりだって」
「ミャーノ?」
 素子はわけの分らない表情になった。が、
「それはロシア人なの? 日本人なの?」
 改めて気がついてききただした。ニューラには、はっきり日本人というものの規定がわからないらしくて、迷惑そうにドアのところでもじもじと立っている足をすり合わした。
「ロシア人じゃないです」
 そのとき、伸子が、
「ね、きっとミヤノって名なのよ。それがミャーノってきこえたんだわ、ニューラに……そうでしょう?」
「ああそうか、なるほどね。それにしたって宮野なんて――知ってるかい?」
「知らないわ」
「だれなんだろう」
 ともかく、廊下で待っていて貰うようにニューラにたのんで、伸子たちは、浴室へ行った。
 顔を洗って室へ戻ろうとすると、ほんのすこし先に行った素子が、
「おや! もう来ていらしたんですか!」
と云っている声がした。それに対して低い声で何か答えている男の声がきこえる。伸子は、その声にきき耳を立てた。ニューラが間ちがえて通してしまったんだろうか。女ばかりの室へ、いないうちに入っているなんて――。伸子は浴室から出られなくなってしまった。例のとおり紫の日本羽織はきているものの、その下はスリップだけだった。
 浴室のドアをあけて、伸子は素子をよんだ。そして、もって来て貰ったブラウスとスカートをつけ、又、その上から羽織をはおって、室へ戻ってみると、ドアの横のベッドの裾のところの椅子に、一人の男がかけている。入ってゆく伸子をみて、そのひとは椅子から立った。一種ひかえめな物ごしで、
「突然あがりまして。宮野です」
と云った。
「レーニングラードでバレーの研究をして居られるんだって」
「着いて停車場から真直《まっすぐ》あがったもんですから、朝から大変お邪魔してしまって……」
 そのひとはほんの一二分の用事できている人のように、カラーにだけ毛のついた半外套をきたまま、そこにかけていた。伸子は、その形式ばったような行儀よさと、いきなり女の室に入っていたような厚かましさとの矛盾を妙に感じた。意地わるい質問と知りながら伸子は、
「秋山宇一さんとお知り合いででもありますか」
ときいた。
「いいえ。――お名前はよく知っていますがおめにかかったことはありません。まだ居られるそうですね」
「じゃ、どうして、わたしたちがこんなところにいるっておわかりになったのかしら――」
 紹介状もない不意の訪問者は二十四五で、ごくあたりまえの身なりだった。ちょっとみると、薄あばた[#「あばた」に傍点]でもあるのかと思うような顔つきで、長い睫毛が、むしろ眼のまわりのうっとうしさとなっている。
 宮野というひとは、遠慮ない伸子のききかたを、おとなしくうけて、
「大使館でききましたから」
と返事した。伸子には不審だった。レーニングラードからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ着いて真直来たと云った人が、大使館で、きいて来たという、前後のいきさつがのみこめなかった。しばらくだまっていて、伸子が、
「――きょうは何曜?」
 ゆっくり素子に向って、注目しながらきいた。
「日曜じゃないか!」
 わかりきってる、というように答えたとたん、素子はそうきいた伸子の気持をはっきりさとったらしかった。日曜日の大使館は、一般の人に向って閉鎖されているのだった。ふうん、というように、素子はつよく大きくタバコの煙をはいた。
「ずっとレーニングラードですか?」
 こんどは素子がききはじめた。レーニングラードはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]より物価もやすいし、住宅難もすくないから、レーニングラードにいるということだった。同じような理由から、外務省の委托生――将来領事などになるロシア語学生も、何人かレーニングラードにいるということだった。
「バレーの研究って――わたしたちはもちろん素人ですがね、自分で踊るんですか」
「そうじゃありません、僕のやっているのは舞踊史とでもいいましょうか……何しろ、ロシアはツァー時代からバレーではヨーロッパでも世界的な位置をもっていましたからね。――レーニングラードには、もと王立バレー学校がありましたし、いまでも、その伝統があってバレーでは明らかにモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]をリードしていると思います」
「――失礼ですが、わたしたち、お茶がまだなのよ」
 伸子が言葉をはさんだ。
「御免蒙って、はじめてもいいかしら」
「どうぞ。――すっかりお邪魔してしまって……」
「その外套おとりになったら?」
 明らかに焦だって伸子が注意した。
「あなたに見物させて、お茶をのむわけにもいかないわ……」
 そのひとにもコップをわたして、バタをつけたパンとリンゴで茶をのみはじめた。そうしているうちに、伸子の気分がいくらかしずまって来た。不意にあらわれた宮野という人物に対して、自分は礼儀の上からも実際の上からも適切にふるまっていないことに気づいた。話がおかしいならおかしいでもっと宮野というひとについて具体的に知っておくことこそ、必要だ。伸子はそう気づいた。
「いま第一国立オペラ・舞踊劇場で『赤い罌粟《けし》』をやってますよ」
 ちゃんと着かえる機会を失った素子が部屋着のまま、茶をのみながら話していた。
「あんなのは、どうなんです? 正統的なバレーとは云えないんですか」
「レーニングラードでは、このシーズン、『眠り姫』をやっているんですが、僕はやっぱり立派だと思いました――勿論『赤い罌粟』なんかも観たくてこっちへ来たんですが」
 宮野というひとは、
「僕は主として古典的なバレーを題目にしているんです。何と云ってもそれが基礎ですから」
と云った。
 その頃、ソヴェトでは、イタリー式のバレーの技法について疑問がもたれていた。極度にきびしい訓練やそういう訓練を経なければ身につかない爪立ちその他の方法は、特別な職業舞踊家のもので、大衆的な舞踊は、もっと自然であってよいという議論があった。伸子がこれまでみた労働者クラブの舞踊は、集団舞踊であっても、いわゆるバレーではなかった。伸子は、すこし話題が面白くなりかかったという顔つきで、
「日本でも、バレー御専門だったんですか?」
ときいた。
「そうでもないんです。――折角こっちにいるんだからと思いましてね。バレーでもすこしまとめてやりたいと思って……」
 再び伸子は睫毛のうっとうしい宮野の顔をうちまもった。何て変なことをいうひとだろう。折角こっちにいるんだから、バレーの研究でもやる。――外交官の細君でもそういうのならば、不思議はなかった。良人が外交官という用向きでこっちへ来ていて、自分も折角いるのだから、たとえばロシア刺繍でもおぼえたい、それならわかった。けれども、この若い男が――では、本当の用事は何でこのひとはソヴェトへ来たのだろう。はじめっからバレーの研究をするつもりもなくて来て、折角だからバレーでもやろうというような話のすじは、伸子にうす気味わるかった。伸子にしろ、素子にしろ、フランスではないソヴェトへ来るについては、はっきりした目的をきめているばかりか、いる間の金のやりくりだって、旅券やヴィザのことだってひととおりならないことで来ている。それだのに――伸子はかさねて宮野にきいた。
「どのくらい、こっちにいらっしゃる予定なの」
「さあ――はっきりきまらないんです。――旅費を送ってよこす間は居ようと思っていますが……」
 素子が、へんな苦笑いを唇の隅に浮べた。
「何だか、ひどくいい御身分のようでもあるし、えらくたよりないようでもありますね」
「そうなんです」
「そんなの、落付かないでしょう。――失敬だが、雑誌社か何かですか、金を送るってのは……」
「西片町に一人兄がいるんです。その兄が送ってよこすんですが――大した力があるわけでもないんだから、どういうことになりますか……」
 そういいながら、宮野はちっとも不安そうな様子も示さないし、その兄という人物から是非金をつづけて送らせようとしている様子もない。
 茶道具を片づけて台所へ出て行った伸子は、つかみどころのない疑いでいっぱいだった。どういうわけで、宮野という人が伸子たちのところへ来たのか、その目的が感じとれなかった。ただ友達になろうというなら、どうして誰かから紹介されて来なかったのだろう、たとえば大使館からでも。――大使館からでもと思うと、伸子は宮野の身辺がいっそうわからなくなった。その大使館で、伸子の住所をきいて来たと云ったって、今朝はしまっているはずなのに。――
 はっきりした訪問の目的もわからずに、日本人同士というだけでちぐはぐな話をだらだらやっているうちに、一緒に正餐《アベード》という時間になり、夜になったりしたら困る。伸子は不安になった。伸子のこのこころもちは伸子自身にとってさえいとわしかった。しかし座もちがわるくなってつい伸子や素子ばかり喋るうちに、えたいもしれないひっかかりがふかまりそうで、それにはいわくがないはずの
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