A素子と橇に合い乗りで帰りながら、伸子はひと晩つまらない芝居を観てすごした不満というにしては、こだわるところのある、いらだたしさのようなものを感じた。
「ここで社会主義があんな象徴主義《シンボリズム》で扱われるなんて――」
 伸子が腹立たしいような抗議を感じるのは、そこだった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活に、社会主義は目に見えるものであり、触れ得るものであり、生きている現実であるからこそ、伸子はこんなにモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の沸騰を愛しているのに。この冬が最後のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]暮しと思えばこそ、こうしてすべってゆく橇のかたいバネを通じて体につたわる並木道の凍った雪のでこぼこさえ、忘れがたく思っているのに。――
「『射撃《ヴィストレル》』の方が、あれでまだ芝居になっている」
 素子が劇通らしく云った。
 登場人物が善玉・悪玉に固定されているような点に難があったが、ベズィメンスキーのその詩劇は、五ヵ年計画から出現した工場の突撃隊《ウダールニキ》の活動を主題としたものだった。「射撃」を上演しているのもメイエルホリド劇場だった。
「メイエルホリドも目下あれをやって見、これをやってみというところなんだろうな」
 素子がいうとおり「射撃」の方は、全くリアリスティックに演出されているのだった。リアリスティックになったメイエルホリドの舞台は、しかし革命劇場の舞台にくらべて、どれだけの特色があると云えたろう。

 伸子は、あれこれを考えながら、デスクに向って黒表紙の帳面に、ゆうべ観て来た「風呂」のプログラムと切符とを、はりつけていた。パリから帰ってから、伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の最後のシーズンに観るすべての芝居の記念を保存しているのだった。
 上演目録の選定のやかましい芸術座は、このシーズンもことさら五ヵ年計画を題材にした脚本を追いまわしていなかった。ドストエフスキイの「伯父の夢」と「オセロ」と「復活」などを上演している。「復活」を芸術座は全くこれまでにない演出でやっていた。カチャーロフが、カチューシャの裁判の場面では舞台の袖に立ち、ネフリュードフの苦悩の場面では、さながらネフリュードフの良心の姿のように、ネフリュードフの背後に迫って、この上なく印象的に小説の中から原文のままを朗読した。短い鉛筆を、右手にもち左手は上衣のポケットにおさめ、黒ずくめのカチャーロフが、舞台の下に立って、錆びのある声で、吹雪の中を去ってゆくネフリュードフを追って遂に失神するカチューシャの歎きを物語ったとき、満場の観客はひき入れられて、カチャーロフと一身一体のようだった。あの充実した見事さ。――だが、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ではどんな芸術家も、破綻のない「完成」にだけおさまってはいられないのだ。「風呂」が失敗であるにしろマヤコフスキーは、自分をひろい地帯へと押しだした……
 考えこんでいた伸子を我にかえらせて誰かがドアをノックした。
「どうぞ」
 デスクに向いたまま伸子は返事した。
「よろしいですか」
 ドアから半身あらわしたのは、伸子たちのいる下宿の主人であるルケアーノフだった。伸子は、ちょっと瞬きした。彼女たちが越して来てから、主人のルケアーノフが自身で室へ訪ねて来たという前例がまだなかった。
「おはいり下さい、どうぞ」
 デスクの前から立って伸子はドアのところへ出て行った。ルケアーノフは、ドアのノッブに片手をかけたまま、
「あなたおひとりですか」
ときいた。
「吉見さんは、正餐《アベード》に帰って来ます」
 ルケアーノフは、栗色の髪がうす禿になっている顔をすこしかしげ、何か考えたが、
「よろしいです」
 いそいでいるが、待とうと決心した口調で云った。
「では、正餐《アベード》のあとで――」
「御都合がよかったら、わたしたちが、あなたのところへ行きましょうか」
「わたしが来ます、では、のちほど」
 ドアをしめて去ったルケアーノフの靴音が、食堂につかわれている隣室のむき出しの床の上に暫くきこえて、やがてクワルティーラじゅうがひっそりとした。
 何かがおこっている。――ルケアーノフと伸子たちとにとって、何か愉快でないことが。その予感を疑うことは出来なかったが、伸子には、たしかに愉快でないにちがいないことの内容が、推察されなかった。
 ことしから必要とされるようになった居住証明の書付。それは伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]・ソヴェトのその係へ行って、つい先日、三ヵ月間の証明をもらって来てある。食糧の配給切符――それはルケアーノフの細君に二人分そっくり渡して伸子たちは賄つきで暮しているのだった。
 素子が帰って来る。その踵を追うようにしてルケアーノフの細君がはいって来た。
「正餐をお出ししていいでしょうか」
「どうぞ」
 伸子は、
「ね」
と、素子を見た。
「何かでしょう?」
 いつも落付いて、皿を運んで来て、ときには、
「いかがです? お気に入りますか」
とテーブルのわきに立っていることもあるルケアーノフの細君は、正直で親切な主婦が、ざっと一年悶着なしに暮して来た下宿人に対して急におこった気まずさをかくしているときのかたくるしさで、振舞っているのだった。
「まあ、いいや。話があるなら聞こうじゃないか」
 正餐がすんでからの十五分を待ちかねていたように、ドアがノックされた。
 ルケアーノフは、食事の片づけられたあとの円テーブルに向って伸子が出しておいた椅子にかけた。椅子のなくなった伸子は、自分のベッドにかけた。
「用事というのは、こういうことなんですが」
 こんど住宅管理法がかわった。従来一つの建物は、そこに住んでいる人たちの間から選出された管理委員会で管理していて、たとえばこのアストージェンカ一番地の住宅は、ルケアーノフ自身も委員の一人である管理委員会が見ていた。新しい管理法では、区《ライオン》の住宅委員会が各町々の住宅を綜合して管理することになった。この建物の管理委員会から区《ライオン》の管理委員会への代表が選定された。そして、いままで個人的に部屋がしをしている者は、その室をあけて、各組合の住宅難で困難している人々の間にふりかえることに決定された、というのだった。
「決定された」という言葉が、ルケアーノフと伸子にとってどういう実行力をもつものであるかということはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に二年いる伸子たちによくわかった。そういう決定があった以上伸子たちはもうルケアーノフの借室人であることは不可能になったのだ。
「事情は、わかりました。けれども、わたしたちは歩道に暮すことは出来ないんでしてね」
 素子が云った。
「少くとも、別のところを見つけるまでは、あなたも待って下さるでしょう」
 当惑した、というより、にっちもさっちも行かなくなった混乱がルケアーノフの、実直な勤め人らしく小心な顔にひろがった。心臓が弱いそうで、タバコをのまない彼は、途方にくれて、くみ合わせた脚の膝小僧をこするようにした。
「期限が十日間しかないんです」
「たった?――わたしたちが区の住宅管理委員会へ行って話してみましょう、そして諒解してもらいましょう、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で十日間で室を見つけるなんて!」
 うっすり顔をあからめておこり出した素子を、ルケアーノフは恐慌的な灰色の眼で見つめた。そして、出どころのない場所へ追いこまれたように、
「新聞に出ていた布告をよまれませんでしたか」
 それまでだまって話をきいていた伸子をかえりみて訊くようにした。
「どんな布告だったかしら――」
 ああそう云えば。――伸子は思い出した。布告《アビヤブレーニエ》などという性質のものだとは思わずに読みすぎたのだが、一週間ばかり前「イズヴェスチア」に一つ小さい記事があった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]在住の外国人は個人のクワルティーラに住むことは許されなくなる。外国人はホテルに住むことを求められる。そんな意味だった。伸子は、そういう外国人[#「外国人」に傍点]のうちに自分たちが数えられるとは感じなかった。全く、いろんな外国人[#「いろんな外国人」に傍点]がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいる。――たとえば藤原威夫のような。ああいう人が、立派なクワルティーラにいる。だからそういう処置も当然考えられることだ。そう思って読んだだけだった。
「外国人は一般に個人のクワルティーラではうけいれないことにきめられました」
 ルケアーノフがそう云ったとき、伸子は、自分で予想もしていなかった悲しさにうたれた。深く傷つけられた感じだった。伸子たちは外国人にちがいないけれども、それならば、と、トランクをいくつも橇につんでボリシャーヤ・モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]・ホテルへ納るような、そういう種類の外国人[#「外国人」に傍点]ではなかったし、ソヴェト生活に対して、そういう気分をもって暮してもいないのだった。
 素子も黙った。黙ってタバコの煙をはいている。
 こわい顔をして口をきかなくなってしまった二人の女を見ながら、ルケアーノフは不安にたえないようだった。彼はくりかえして、
「よろしいですか。わたしはあなたがたが事情を完全に了解されることを期待しています」
と云った。
「全然、個人的な理由からではありません――全然……」
「それは十分わかりますよ」
 タバコの赤いパイプを口からとって素子が重々しく答えた。「もし個人的な理由ならば、わたしたちは、一年以上あなたがたに何一つ迷惑をかけなかったということを主張するでしょう。部屋を出てゆかなければならない個人的[#「個人的」に傍点]理由なんか、一つもありはしない!」

 ルケアーノフが去ってから、伸子も素子もややしばらくものを云わなかった。
 やがて素子が、自嘲もふくむいろいろな気持を、ともかくその一点へ集めてあらわすというように、
「なんだ! びくびくして!」
 口のはたに皮肉な笑いをうかべた。
「こっそり儲けて来ているもんだから、今更、おっかなくてたまらなくなったんだろう」
 ルケアーノフについて、何と云ってみたところで、十日後に伸子と素子に住むところがなくなるという事実がどう変化するだろう。
 ぐるりの人々からの民族的な偏見がちっともないために自分たちが外国人[#「外国人」に傍点]であることを忘れたように暮して来た月々について、伸子は思いかえした。「赤い星」にスターリンの富農絶滅の論文が出るすこし前、レーニングラードで大規模の陰謀が発見されていた。ドン・バス炭坑区の生産破壊計画の間にも、外国人[#「外国人」に傍点]は主役を演じた。「外国人」に対するソヴェトの人々の警戒と立腹とには、よその国の人たちが外国人に対してもっている偏見や先入観などとまったくちがう理由があるのだった。ソヴェトの人々の警戒と立腹とは、一人一人の外国人の誰彼についていうより、もっと大きく、ソヴェト社会を毒害しようとする帝国主義一般にむけられている。
 伸子は、ソヴェト社会の根本からのちがいについて感動をもって実感しながら、ストルプツェの国境駅を通過し、パリからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰って来た。ここの者[#「ここの者」に傍点]と自分を感じて伸子は帰って来ているのだった。しかし、外面にあらわれている伸子たちのアストージェンカでの暮しには、心のうちにある善意がどれほど行動されていると云えたろう。伸子の精神のなかに熟しかけていて、ひそかに期待するところのある未来の人生も、それは、素子にさえもうちあけてはいない伸子の心のうちでだけの変化だった。
 いまのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、伸子の主観にまで事こまかにたちいっている暇のない人々の必要から生れた処置。――そのことは伸子によくわかる。
 伸子は、悲しさを抑えた眼で素子を見た。
「どうする? パッサージできいて
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