Lにふりかえてゆく、という仕事になって現れている。そして、少数の大資本は強められる。しかし、世界恐慌からのぬけ道は、結局彼らの前にもふさがれている。
蜂谷良作が、ぶっきら棒に、そういう、必要な時事解説だけしかしまいと決心しているのはいいことだった。伸子も女学生のように、自分の前にひろげられている帳面の幅だけに、雰囲気をせばめるのだった。
十
野沢義二の暮しぶりを見たら、蜂谷良作のおちつけなさ工合が、伸子にまざまざとわかるようになった。
パリの郊外に国際学生会館が建って、そこには日本からの留学生も何人か滞在している。ある日、伸子は蜂谷良作と一緒に、それらの人々に招かれた。郊外列車が、原っぱのなかに急造されているバラック風の駅へとまると、そこが国際学生会館を中心として、一つの町になろうとしている地域だった。トロッコのレールが掘りかえされた地面の上を走っていて、人々の歩くところだけやっと歩道ができている。そこに、木造の、粗末だけれども清潔なキャフェテリア(自分で給仕する方式)の大食堂や、簡単な日用品の売店があって、本建築の仕上った本館は、すこしはなれたところに灰色と白で、清楚な四角い姿を浮き上らせていた。アトリエのようにガラスの面がひろくて、天井の低い新様式の室の窓から、建設のためにごったかえしている敷地を眺めながら、渋い結城紬《ゆうきつむぎ》の袷《あわせ》とついの羽織を重ねた日本の学者が、宗教哲学の話などをしている。伸子は、それらの人々から、ガラスの中にはいっている翼の大きい黒い鳥というような印象をうけた。留学生と云っても、その日その室に集った人たちは、みんな相当の年配で、日本には家庭があり、子供のある人たちだった。国際学生会館の一室にかたまって、これらの人々は論理的に、あるいは頭脳的に、愉しくあろうとしている風だった。けれども、ただ一人の女としてその座に加っている伸子の直感は、そこにかもしだされている空気に、みんなのもちよっている無意識のかわき[#「かわき」に傍点]があることを、感じずにいられなかった。この人たちには、誰にとっても家庭がないという状態が自然でないのだ。伸子はそう思った。日本の男のひとたちは、何と家庭になれているだろう。国際学生会館の人々は、蜂谷良作と似た三十五から四十歳の間の年ごろであり、どこか晴れやらぬ空といったところのある気分においても彼と似ている。
伸子の父の泰造がロンドンに留学していたのは、丁度いまここに集っている人々と同じ年ごろであり、五つだった伸子の下に小さい二人の男の子がいたという事情も似ていた。ここにいる人たちの、ふっきれない神経の複雑さが理解されるように感じたとき、伸子は、父親のロンドン生活の、いままでは見えなかった側面にふれたように思った。そこには、多計代ばかりでなく、多くの妻が嫉妬をもって想像したりするよりも、もっと人間らしい何かの飢渇があるのだ。そして、伸子は、年月はいつの間にかあのころ五つだった娘の自分が、そんな風にも考える女の年ごろになってパリに一人いることにおどろくのだった。
郊外からサン・ラザールの停車場まで帰って来たとき、蜂谷が伸子を誘った。
「思ったより早かったな。――ここからだとつい近くだから、野沢君のところへよって見ませんか」
「よってもいいわね」
佐々のうちのものがパリを立つとき、ペレールの家へ来あわせた蜂谷良作と野沢義二が、荷づくりの手つだいをして北停車場まで送ってくれた。それから伸子は野沢に会っていなかったし、手紙も書いていなかった。
夜のパリの裏通りをいくつか折れて、空倉庫かと思われる薄暗いがらんとした入口から、伸子は一つの建物に案内された。
狭くて賑やかな裏通りの錯綜した光の中を来た伸子の眼には、ぼんやり何か大きく積みあげられている物の形しか見えない埃っぽいコンクリートの床から、じかに幅のひろい鉄製の階段が通じていた。がらんとした入口がほとんど暗かったように、その鉄製の幅ひろい階段も、やっと足もとの見当がつく暗さだった。だまって蜂谷良作に肱を支えられながら、そこをのぼり、伸子は、上へ出たらそこは明るいのだろうと思った。ホテルらしい帳場のようなところもあるのだろうと思った。
ところが、二階のおどり場には電燈こそついているけれども、燭光の弱い光にぼんやり照し出されて、無味乾燥に何ひとつなく、そこに面していくつかの戸が無愛想にしまっている。
めずらしいのと、多少気味がわるいのとで足音をしのばせるようにしている伸子の先に立って、蜂谷が一つのドアをノックした。語尾が澄んでいて、そこにきき覚えのある野沢の声が、
「|お入りなさい《アントレ》」
部屋のひろさを思わせて響いた。
ドアを入った伸子の最初の一瞥にうつったのは、正面に夜の空を映している二つの大きい窓と、紙や書籍のとりひろげられている大きいデスク。いくつか椅子のあるひろくて古びた、茶色っぽい室内だった。
「やあ、これはめずらしい」
その室の小壁のでっぱりで、ドアからかくされている寝台の上で野沢義二が起きあがった。
「ようこそ、この辺へ来たんですか?」
それは伸子に云って、
「かぜひきなんだ」
野沢は寝台の裾にぬいであった部屋着をとって羽織った。
「いつぞやは、ありがとうございました」
「いいえ。――クラマールへ越したんですって?」
「そうなんです」
「いまごろの郊外はいいな」
伸子は、手近にある椅子をひきよせてかけた。
「じき失礼いたしますから、臥《ね》ていらした方がいいわ」
「いや、もういいんです。熱もないし」
蜂谷は、最近ここへよったらしく、
「あれから、ずっとかい?」
ときいた。
「うん。僕はいくらか慎重すぎるのかもしれないんだ。しかし、すっかりなおそうと思ってね」
野沢は喉熱を出して数日来臥ているのだった。ホテルとよばれているけれども、どこにもホテルらしい設備も見当らないこんな建物の中で、臥たきりの野沢のために食事を運ぶ誰かがいるのだろうか。野沢の生活ぶりには、万事について一定の節度があった。伸子はそこを立ち入ってふれにくいのだった。
「お大事にね。わたしはフランスで病気したくないと思っているわ」
「特別フランスでというのは?」
「いつか、夏のころ、吉見さんがひどい歯いたを起して大さわぎしたことがあるんです。そのときわたしたち何も薬をもっていないでね、薬屋へ行ったら、三色菫《パンジー》の花の乾したのを煎じてのめってよこしたのよ。――あなたも、何かの葉っぱを煎じて、のまされていらっしゃるんじゃないのかしら」
野沢は、おもしろそうに笑った。
「僕は、幸《さいわい》、バイエルのアスピリンをのみましたがね」
「佐々さんのいう葉っぱってのは、カモミユのことだろう」
蜂谷良作は、笑いもしないで註釈した。
「ああ――カモミユ――あれはよくのむものらしいね」
次の日の午後六時ごろ、また伸子と蜂谷良作とは、野沢義二の住んでいる建物の埃っぽい鉄製の階段をのぼって行った。蜂谷良作は片手に紙包みを下げ、伸子はそれより小形のやっぱり紙の包みをもって。前の日、かえりぎわに、ふと野沢が云った。あしたは僕の誕生日だから、臥てさえいなければ、三人で御飯でもたべたいところなんだがな、と。――残念そうな野沢の声には、ひとりきりで臥ていなければならない彼の、単調さにあきた響があるようだった。立ちかけていた伸子は、その感じにひかれた。ちょっと足をとめて思案していた伸子は、わきの蜂谷に、
「蜂谷さん、あしたの夕方、お忙しい?」
ときいた。
「いいや」
「じゃあ、こうしてはどうかしら」
三人で輪になって協議するという風に伸子が提案した。
「野沢さんは動いちゃいけないんだから、わたしたちで動いて来ましょうよ、その案はどう? そして三人で、お誕生祝のおかゆをたべましょうよ、わたしがここでこしらえるわ」
「誕生祝のおかゆっていうのは――風変りな思いつきだな。しかし御迷惑をかけちゃいけない」
「平気だわ」
伸子は、
「ね、蜂谷さん」
あいまいに立っている蜂谷にたしかめた。
「そうしましょう、ね」
次の日の四時半に伸子がクラマールの停留場に近い蜂谷のところへよって、それから来る約束になった。
鍋とくみ合わせになっているアルコール・ランプ。小さいコーヒーわかし、日本の茶、海苔《のり》などというものを二つの包みにこしらえて、伸子は約束の時間に、マダム・ベルネの家を出て、サン・トアンの蜂谷の室へよった。すると宿の女主人である画家の未亡人が、黒繻子の大前掛をかけた姿で、いぶかしそうに伸子を出迎えた。
「ムシュウ・アチヤは、たった今、出かけましたよ」
伸子は、腕時計を見た。四時半という約束の時間には、まだ五分もあった。早かったとしても、伸子はおくれて来ているのではなかったのに。――
蜂谷の下宿はクラマールの山の手にあたる住宅区域のだらだら坂を下りきったところに在って、電車の停留場まで、二三分の距離だった。伸子は短いその距離を、いそがず、一人で歩いて行った。伸子の時計がおくれていたのかもしれない。だけれども、三分や五分おくれたと云って、彼のところへよると約束している伸子をおいてきぼりにして、蜂谷良作が先へ出かけてしまった意味が、伸子にのみこめなかった。伸子は野沢義二の住所をはっきり知っていない。そのことは蜂谷によくわかっている。もしきょう病気をしている野沢の誕生日のために、おかゆをこしらえてみんなでたべようなどと興じている伸子に彼が不同意なら、あっさりぬけていいのだ。伸子はとめはしないのに。――待ち合わせる約束をしておきながら、一人で先へ出かけてしまったりして、そのことで蜂谷が伸子に何かの意味をさとらせようとするなら、伸子は、そんなおかしくすねたようなやりかた、絶対にわかってやらない。そう思った。彼は、じぶくりたいように、ひとりでじぶくればいいのだ。
停留場のところへ来てみると、そこで蜂谷が、十一月の夕風に吹かれて面白くもなさそうに立っているのを見出した。彼は伸子を見ると、むっつりした顔のまま、包みをうけとるために手をさしのばした。
「――どうして先へ来ておしまいになったの?」
「ここでおち合うことになっていたんじゃなかったのかな」
「あなたのところへ四時半ていう、お約束だったわ」
蜂谷良作は、
「――僕がおぼえちがいしていたかなあ」
と云いながら、なぜか、黒いソフトをぬいでかぶり直した。
伸子と蜂谷良作とは、途中、あんまり口をきく気分にならずに野沢義二の下宿へついた。
野沢義二の古びた茶色のひろい室、それはゆうべ伸子が見たままの様子だった。とりたててどこが片づけられてもいず、彼は、やっぱり片隅のバネのゆるんだようなダブル・ベッドの上におきかえっていて、そのありのままの様子が、クラマールからひっかかっていた伸子の気分をのびやかにした。
「ほんとにおかゆだけよ」
「結構ですとも。――久しぶりだなあ、日本のおかゆなんて」
「わたしは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で三ヵ月入院していて、癒《なお》りかけのとき、それは、それは、つめたい、そうめん[#「そうめん」に傍点]をたべてみたかったわ。それから、日本の海の、つよい潮のかおりね、波がさあっと来たとき匂う――あの匂いへ顔をつっこみたかった」
「そう云えば、日本の海辺ぐらい、潮のにおいがつよいところって、ほかにないんじゃないかな」
野沢の部屋には、入口と別の隅にもう一つドアがついていた。その外にうす暗い廊下があって水道栓とちょっとした流しがついていた。そこで伸子はボール箱からカロリン米を鍋にうつして洗って来た。そして野沢の大きいデスクのはじへアルコール・ランプをおいて鍋をかけた。玉子、果物が、紙袋のままそのわきに置かれている。鍋の番をする伸子は、デスクへ横向きの位置にかけていて、はなれたところに蜂谷と、寝台の上の野沢と、ゆったりした三角形の二つの点になって話している。
男二人は、ソヴェト同盟の五ヵ年計画について話してい
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