ス。
「マルセーユまで行きましょう。まだ切符は買えるわ」
小さい腕に赤坊を抱いてわきに立っている青年に、伸子は、
「おそれ入りますが、切符買って来て頂けますかしら」
とたのんだ。青年は曖昧に答えて、どうしようという風に須美子を見た。
「そんなにまでして頂いてはすみませんわ、ほんとに、わたくし、大丈夫ですから……」
「だって、疲れきっているのがわかっているのに――一人でやるなんて……」
須美子は、ためらうようにしていたが、
「この方がマルセーユまで来て下さることになって居りますから……」
彼女のわきに立って赤坊を抱いている青年に顔を向けた。
「――ああ、それなら、どんなにかいいわ――どうぞ、くれぐれもよろしくね」
言葉すくなに、しかしゆきとどいて用意されている出発。それも須美子らしかった。
発車がせまって、細っそりステップに立っている須美子のうしろから、プラットフォームの人々に挨拶しようとする二つ三つ外国人の顔が重なった。
「何だか、あぶないわ、うしろから押されそうで。――こっちへ行きましょう、窓のところへ」
やがて動き出した窓について、伸子は暫くの間いそぎ足にプラットフォームを進んだ。列車の速力はまして、手をふっている須美子のおかっぱの頭もやがて前方の人むれに遮ぎられた。
二
その一日のうちに重なった二度の見送りは、どちらもパリにのこる伸子に悲しさや、寂しさをのこした。
翌日、伸子は終日ひとりで、余韻のふかいこころもちのうちに暮し、市内ですましておかなければならない用事を果した。文明社から伸子あてに送られて来ている金を日仏銀行でうけとり、ロンドンにいる和一郎たちのために父がのこして行った金を同じ銀行から送り出した。ペレールあてで来た一番しまいのエハガキに、和一郎は、小枝と二人で、一週一時間、英語の稽古をはじめたことを報告してよこしていた。
「まあ、そんなところでしょう」
そう書いている和一郎の文句には、和一郎と小枝のロンドン生活のなまあたたかい空気を感じさせる印象があった。
その日の換算率は一フランが十二銭だった。文明社から来た金と、泰造が使いのこりだからと伸子にくれたその半額ほどの金とを合わせたものが、これからの伸子の生活費だった。仕事をしなければならない。伸子は経済の点からもそう思い、仕事そのものの点からもそう思った。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を出てから、伸子は一つの旅行記さえ書いていなかった。文明社は、伸子が臨時に送る原稿に対しては原稿料を別計算で送って来た。それは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいたうちも伸子の経済をたすけて来た。パリへ一人のこって、仕事のしたくなる心持になりたい。伸子はそれをのぞんでいたのだった。
クラマールの下宿代は、敷布類の洗濯代はむこうもち、一週に一度の入浴つきで一ヵ月一九五〇フランだった。パリの労働者が一日平均六〇フランの収入だとすれば、マダムは、伸子をおくことで、一人前の労働者がとるよりもすこし多い稼ぎをするわけだった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]まで帰る旅費をとりのけると、伸子の手許には、クラマールに二ヵ月足らずいて、その間に少しは次の収入になる書きものをする費用と、絵の本をいくらか買う金がのこるだけだった。冬のシーズンに、新らしい服を買うゆとりはなかった。
モンソー・エ・トカヴィユ・ホテルの屋根裏部屋で、伸子はそのようなこまかい計算をした。それから、翌日、伸子は迎えに来た蜂谷良作とクラマールへ引越したのだった。
クラマールの新しい室で、手軽な荷物の片づけが終ったとき、伸子は思わず、
「こまった!」
頬へ手を当てて棒立ちになった。伸子は、ホテルへ白い猿をおいて来てしまったのだった。ちょっとほこりをよけて、と思って衣裳棚へ入れた。そのままおいて来てしまった。素子の親切なときの顔つきに似ているからとロンドンで買ったおもちゃの白い猿。それをホテルの戸棚へしめこんで忘れて来たことは、伸子に生きものを忘れて来たようないやな心持をおこさせた。自分につながる素子の存在までを、そのことで何だか無視してしまったようで。――
伸子は階下の客間へおりて行った。ほう、きょうは客間があいている、珍しいんだな、と蜂谷がそこへ伸子を案内しながら云った、その客間では、十五歳になった娘のフランシーヌが、ひとりまえの若い婦人として蜂谷に応対されることをよろこんで、誰か日本人の描いた彼女の肖像画のことを話していた。洗濯工場を経営しているベルネ夫婦は、兄息子のジャックに店を手伝わせ、ましな結婚相手をさがそうとしている母親の考えで、フランシーヌだけは、パリの比較的上流の娘たちが集る女学校へ通学させられているのだった。
「こまったわ、忘れものをして来てしまった」
まじめな心配を顔にあらわして伸子は白い猿のことを話した。
「――どうせ、おもちゃでしょう」
「それはそうだけれど……」
おもちゃ一つのためにそんなにさわぎたてる伸子がわからないという風に、ぷすりとした表情をしている蜂谷と、椅子の背に手をかけたまま立っている伸子とを見くらべて、フランシーヌが、
「ムシュウ・アチヤ」
Hの音をフランス流のアに発音して、きいた。
「マドモアゼルは何と云っていらっしゃいますの?」
「わたしは、マスコットをホテルへ忘れて来てしまったんです」
「まあ。どんなマスコット?」
フランシーヌの英語は、ぎごちなくて、ひどく鼻にかかった。
「白い猿」
フランシーヌは、ちらりと蜂谷を見た。おとなぶった娘の眼づかいだった。すぐにも一人で戻って行って、忘れものをとって来ようとする気持、それもあわただしすぎると思う気持。伸子はその二つの気持で迷った。
「そんなに気になるんなら、もう少したったら、どうせみんなで市内へ出ようと思っていたところだから、そのついでによって見たらいいじゃないですか」
伸子が引越して来たおちかづきに、ジャックが店から帰って来たらフランシーヌと四人づれで、支那料理をたべに出かけようというのだった。
支那料理ということで、伸子はまた困った。日貨排斥がはじまってから、伸子はパリの中華人たちが、日本の帝国主義にひっくるめて、日本人一般に反撥をもっていることを当然だと考えていた。料理店を開いているからには、客として誰が行こうとそれでいいのだろう。けれども、伸子としては、平気でなかった。赤い聯《れん》のかかった帳場の奥の小さい椅子にかけて談笑していた店のものが、入ってゆくこちらを見て、瞬間に表情がかわってゆく。そういうところで、自分のすきなものを、たべる――伸子は支那料理が非常にすきだったから、店の人々の間にある、一種の空気を押しきって、それを食べるということを、よけい動物的に感じるのだった。
しかしフランシーヌはもうその計画を話されているらしくて、
「ジャックがそろそろ帰る時間ですわ、ちょっと失礼いたします」
着がえするらしく、二階の部屋へあがって行った。
ベルネ一家の家政を見ているのは、細君の母親だった。その人にことわって、四人はソルボンヌ大学のそばの、横丁にある中華飯店へ行った。背のひょろりとしたジャックは今年十九歳だった。十七のとき、家に雇っていたおない年の娘を身もちにさせ、それが問題になって家出しようとしたジャックを、どうやら落付けて、店を手つだうようにしたのは蜂谷だった。
はじめてクラマールへ行って、ベルネの部屋を見たかえりの話だった。伸子は、
「それで、娘の方はどうなったのかしら」
ときいた。
「日本のやりかたと全く同じだな。そっちはおふくろがひきうけて、金で解決したらしい」
ジャックは、初対面で、言葉の自由でない伸子には、ひとことも口をきかなかった。武骨な、頭がおそく働くような青年だった。フランシーヌは、興奮していて、顔のよこにたらしている艷《つや》のない栗色の捲髪をときどき手で払いながら、テーブルに片肱をかけ、鼻にかかる声を一層ひっぱってできるだけ大人の女のように蜂谷と話している。ルーマニア人を父にもっているフランシーヌの顔だちには、東洋風な特徴があった。彼女は、物憂げな優美さを自分につよく添えることがその特徴をいかすために洗煉されたポーズだと信じているようだった。
伸子の中にいる、白い猿はますます生きたものになり、その存在を主張した。それがなくなれば、伸子は何かを自分の中から失うことだという感じが抑えられなくなった。何のために、自分はあんなにせき立って――猿をうっかり忘れるほど――クラマールへ来ることをいそがなければならなかったのだろう。蜂谷は、伸子が来てさえしまえば、そのあとに伸子が何を忘れて来ようと、それについて伸子がどんなに心苦しく感じていようと、たかがおもちゃ一つときめて、無頓着でいるのも、心持よくなかった。全体としてそんなことを思う自分がいやなのだった。
伸子は、
「フランシーヌ、ごめんなさい」
そう云って、テーブルから立った。
「わたしの猿が呼んでいるの。わたしは行ってつれて来なければならないわ」
ヴェルサイユ門のところで、四十分後に皆とおち会うことにして、伸子は、モンソー・エ・トカヴィユへタクシーを走らせた。風のようにホテルの表ドアをあけて入って、鍵をかりて、伸子は七階の屋根裏部屋へのぼって行った。衣裳棚をあけた。居た。白い猿は無事にまだそこにいた。
「猿さん!」
伸子は白い猿をトウィードの秋外套の胸に抱きとって一分ばかりそこのディヴァン・ベッドに腰をおろしていた。猿さん! 声に出してそう呼んだとき、伸子の心につよく素子の存在が感じられた。白い猿は、おこった眼をしているようだった。伸子は、なだめるように白い猿の、長くて真白い毛なみをなでた。おととい、佐々の一行が北停車場からモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ立ってゆくとき、伸子はつや子に水色|繻子《しゅす》で縫った袋を一つことづけた。伸子は、あわただしいペレールの家の客間で、ひまを見ては素子のためにその袋を縫った。金色のリボンで口をしめられた出来上りまずいその袋の中には、素子がブラウスにするだけの白いフランスちりめんと、素子が泊っている宿の娘たちへの御愛嬌になりそうなねりものの頸飾り二つ、ネクタイずきの素子のために変り織のネクタイを入れておいた。
三
パリの秋は深く、クラマールの生活は季節のただなかにあった。
伸子が引越して行った翌日は日曜日だった。こんな日に、このクラマールで、とじこもっているなどということはありえなく美しい秋日和だった。伸子は蜂谷良作とこの土地に住んでいる画家の柴垣弘三と二人に誘われて、クラマールの浅い森をぬけ、ムードンの丘の、ほんものの森を通って、夕方までの長い散歩をした。
目抜き通りといっても、そこには小さい商店が並んで間遠な単線の郊外電車が一本とおっているきりの小さいクラマールの町。電車通りから、だらだら坂をのぼって住宅地があった。こぢんまりした中流風の住宅のぐるりは云い合わせたように鉄柵でかこまれ、門から玄関までの間に前庭をもっていて、どこの家にも果樹が植っていた。ゆるい坂の片側にある小学校の日曜日で人気ない広い入口の、一方には「女児《フィユ》」もう一方には「男児《フィス》」と書かれているのも、伸子におもしろかった。パリの市内にも小学校はあったろうのに、伸子は、クラマールへ来て、はじめて、そんな古風な区別をしているフランスの小学校の入口を発見した。
町では一番というカフェーは日曜日の午前中は店をしめていて、テーブルの上に、足をさかさにした椅子が片づけられたままだった。そのカフェーの広場のマロニエの樹の下に、ゆうべ夜ふけまで祭の人を集めて賑っていた小さい舞台が、ひなびた造花の花飾りをつけたままきょうは忘れられている。
町を出はずれて、平らに畑のつづく道になった。その道をすこし行くと、いつかクラマールの森へ入った。森の小道には、クラマールの子供たちもひろい飽
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