かにうけとって、リン博士も年長の婦人らしく、笑みをふくんだ視線で伸子を見ながら、
「さて――私たちは何からお話ししたらいいでしょうね」
と云った。明晰で、同時に対手に安心を与える声だった。伸子はこのひとが若いものを扱いなれていることを直感した。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の孫逸仙大学にはどっさり中国から女学生が来ていた。黒いこわい髪を首の短い肩までバサッと長いめの断髪に垂して、鳥打帽をかぶっている中国の女学生たちを、伸子もよく往来で見かけた。中国では革命家たちに対して残酷で血なまぐさい復讐が加えられていたから、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来て勉強している娘たちの顴骨のたかい浅黒い顔の上にも、若い一本気な表情に加えてどこやら独特の緊張があった。中国女学生たちのそういう表情のつよい顔々は、並木道に立って色糸でかがった毬を売っている纏足の中国の女たちの顔つきと全くちがっていたし、半地下室に店をもっている洗濯屋のおかみさんである中国の女たちともまるでちがった、新しい中国の顔であった。リン博士は、それらの中国のどの顔々ともちがう落つきと、深みと、いくらかの寂しみをもってあらわれている。
リン博士は、孫逸仙大学の教授かもしれない。ほとんどそれは間違なく思えた。けれども、自分が政治的な立場を明かにもっていないのに、あいてにばかりそんなことについて質問するのは無礼だと思えた。伸子は、
「ミスタ・クラウデは、あなたに私を、どう紹介して下すっているのでしょう」
かいつまんで、自分のことを話した。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来て、ほんの少ししか経っていないこと。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へは、観て、そして学ぶために来ていること、など。――
「あなたの計画はわるくありませんね。だれでも、一番事実からつよい影響をうけますからね」
リン博士はニューヨークにある大学の政治科を卒業して、そこの学位をもっているということだった。伸子の記憶に、まざまざと、その大学のまわりで過した一年ほどの月日の様々な場面が甦った。大図書館の大きな半円形のデスクに、夜になると、緑色シェードの読書用スタンドが数百もついていた光景。楡の木影がちらつく芝生に遊んでいた栗鼠《りす》。アムステルダム通りとよばれている寄宿舎前の古いごろごろした石敷の坂道を跳ね越えて、女学生達がよくかけこんでいた向い側の小さな喫茶店。どこも快活で、気軽で、愉しそうだった。そこへ、いつも山高帽子をかぶり、手套をきちんとはめていた佃の姿が陰気に登場する。つづいて、その腕にすがって、様々の混乱した思いのなかに若々しい丸顔を亢奮させつづけていた伸子自身の、桜んぼ飾のついた帽子をかぶり、マントを羽織った姿が浮んで来る。無限にひろがりそうになる思い出の複雑さを切りすてるように、伸子は、その大学が第一次ヨーロッパ大戦のあと、ドイツの侵略に対して英雄的に抵抗したベルギーの皇帝夫妻に、名誉博士の称号を与える儀式を挙行した、その日の光景を思い出して、リン博士に話した。
「ああ――それは、わたしたちが国へかえるすこし前のことでした」
わたしたちと複数で云われたことが、伸子の耳にとまった。リン博士は夫妻でアメリカにいたのだろうか。
「私たちも、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てまだ長くはないんですよ。――私たちは去年来たんですから」
ボロージンが、武昌から引あげたのも去年のことであった。――伸子には段々、この経歴のゆたからしいリン博士に向いあって自分が坐っている意味がわからなくなって来た。クラウデは、どういうつもりで、リン博士を伸子に紹介したのだろう。リン博士の話しぶりには、親愛なこころもちが流れているけれども、クラウデに云われてここで伸子に会うために来ていることは、あきらかである。伸子は、リン博士と自分との間にあり得るいくつかの場合を考えているうちに、ひとつのことに思い当って、益々困惑した。もしかしたらリン博士は、何か伸子がうちあけて相談しなければならない真面目な問題をもっているように理解したのではなかろうか。たとえば合法的に旅券をもって来ているが、何かの形で政治的な活動にふれたいとでもいうような。そして、それが切り出されるのを待って、スカートのあたりのゆったりひろがった姿勢でテーブルによりながらこうして話しているのではなかろうか。さもなければ、その身ごなしをみても一日じゅうの仕事の予定をきっちり立てて活動しているらしいリン博士が、わざわざこの薄暗くて、お茶さえもないメトロポリタンの一室へ来て、伸子ととりとめない話をしようとは思えないのであった。どうしたらいいだろう。伸子は、さしあたってリン博士にうちあけて相談しなければならないようなどんな問題ももっていなかった。額のひろい色白で、眉と眉との間の明るくひらいている伸子の顔に、理解力と感受性のゆたかさはあっても、明確に方向のきまった意志の力はよみとれない。伸子の内心の状態も、彼女のその表情のとおり軟かくて、きまっていなかった。伸子が自覚し、意志しているのは、よく生きたいということだけだった。伸子は、こまって、また自分についての説明に戻って行くしかなかった。伸子はやや唐突に云いだした。
「わたしには、政治的な知識も、政治的な訓練もありません――社会の矛盾は、つよく感じているけれども」
リン博士は、前おきもなしにいきなりそんなことを云いだした伸子の顔を平静な目でちょっと眺めていたが、
「わたしたちの国の文学者も、つい最近まではそうでしたよ」
おだやかにそう云った。そして、考えている風だったが、ほっそりした形のいい腕をテーブルの上にすこし深く置きなおすようにして、リン博士は伸子にきいた。
「――モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]はどうでしょう……モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活は、あなたを変えると思いますか?」
こんなに煮えている鍋のなかで、変らずにいられるものがあるだろうか。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は煮えています。――誰だって、ここでは煮られずには生きられません」
ひとこと毎に自分をたしかめながら、のろのろ口をきいていた伸子は、
「でもね、リン博士」
へだてのない、信頼によってうちとけた態度で云った。
「いつでも、すべての人が、同じ時間に、同じように煮えるとは限らないでしょう?」
「…………」
「わたしは、わたしらしく煮えたいのです。いるだけの時間をかけて――必然な過程をとおって――」
しばらく黙って、伸子の云ったことを含味していたリン博士は、右手をのばして、テーブルの上で組み合わせている伸子の、ふっくりとして先ぼその手をとった。
「――あなたの道をいらっしゃい。あなたは、それを発見するでしょう」
二人はそれきり、黙った。窓の外の宵闇は濃くなって、アーク燈の蒼白い光の下を、いそぎ足に通る人影が雪の上に黒く動く。その景色に目をやったまま、リン博士がほとんど、ひとりごとのようにしんみりとつぶやいた。
「――わたしたちの国の人たちと、あなたの国の人たちと、どっちが苦しい生活をしているんでしょうね」
リン博士の言葉は、しずかで、柔らかくて、心にしみる響があった。伸子は、自分が、リン博士との話の間で、はじめからしまいまで、わたし、わたし、とばかり云っていたことに気づき、自分というものの存在のせまさが急に意識された。そして伸子は、はずかしさを感じた。
けれどもリン博士は、きいている伸子のこころがそんなに激しく動かされたことに心づかなかったらしく窓の外の雪の宵景色を眺めたまま、
「中国の民衆には、大きい、巨大と云ってもいいくらいの可能がかくされています――男にも、もちろん女にも。――ところが中国の人々は、まだその可能性を自覚しないばかりか、それを自覚する必要さえ理解していないんです」
ふっと、情愛のこもった笑顔を伸子に向けて、リン博士は、
「あなた、孫逸仙大学の女学生たちを見ましたか?」
ときいた。
「あの娘たち――みんなほんとに若くて、未熟でさえあるけれど、熱意にあふれているんです。――可愛い娘たち――そう思いませんか?」
その Don't you think so?(そう思いませんか)というききかたには、どんなひとも抵抗できないあたたかさと、思いやりとがこもっている。ほんとに、黒い髪をしたあの娘たちは、国へかえって中国の人々の自由のためにたたかって、いつまで生きていられるだろう。伸子は彼女たちの生活を厳粛に思いやった。リン博士の声には、短く、熱烈な若い命を限りなく評価する響があった。
ホテル・メトロポリタンのうすよごれた暗い裏階段から、伸子はアーク燈に照らされている雪の街路へ出た。リン博士との会見は不得要領に終ったようでありながら、伸子のこころに、これまで知らなかった人の姿を刻みつけた。リン博士のすんなりとした胸のなかには、そこをひらくと深い愛につつまれながら幾百幾千の中国の人々が、黒いおかっぱを肩に垂らした女学生もこめて、生きている。それにくらべて、自分の白いブラウスの胸をさいて見たとして、そこから何が出て来るというのだろう。先ず、わたし。それから佃や動坂の一家列。――しかもそれが、幾百幾千の人々の運命と、どうつながっているというのだろう。伸子は、防寒靴の底にキシキシと軋《きし》んで雪の鳴る道を、足早に追いこしてゆくどっさりの通行人の間にまじりながら、小さい黒外套の姿で歩いて行った。
五
一月にはいると、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では快晴がつづいた。冬の青空がたかく晴れわたった下に、風のない真冬の日光が、白雪につつまれた屋根屋根、雪だまり、凍った並木道の樹々を、まばゆく、ときには桃色っぽく、ときには水色っぽく、きらめかせた。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河の凍結もかたくなった。雪の深い河岸から眺めると、数株の裸の楊の木が黒く見えるこっち側の岸から、小さな小屋のようなものがポッツリと建っているむこう岸まで、はすかいに細く黒く、一本の踏つけ道が見えた。凍った河づらの白雪の上に黒い線に見える横断道の先で、氷滑りをしている人影が動いた。人影は雪の上で黒く小さく見えた。
この季節になってから、赤い広場の景色に風致が加った。トゥウェルスカヤ通りが、クレムリン外壁の一つの門につきあたる。漆喰の古びた奥ゆきのふかいその門のアーチのぐるりには、毎日、雪の上に露店が出ていた。どこでもそうであるとおり、先ず向日葵の種とリンゴ売。靴みがき。エハガキ屋。粗末なカバンや、原始的な色どりのコーカサス絹のカチーフを並べて売っているもの。門のまわりはこみあっていて、裾長の大外套をきた赤軍の兵士だの、鞣外套のいそがしそうな男女、腕に籠を下げて、ゆっくりと何時間でも、店から店へ歩いていそうなプラトークのお婆さん。なかに交って、品質はいいけれども不器用に仕立てられた黒い外套をつけた伸子のような外国人までもまじって流れ動いているのだが、伸子は、いつも、この門のアーチを境にして、その内と外とにくりひろげられている景色の対照の著しさに興味をもった。アーチをくぐりぬけて、白雪におおわれた広場の全景があらわれた途端、その外ではあんなに陽気に動いていた人ごみは急に密度を小さくして、広場には通行人のかげさえまばらな寂しい白い真冬がいかめしかった。
韃靼風に反りのある矛形飾りのついたクレムリンの城壁が広場の右手に高くつづき、その城壁のはずれに一つの門があった。そこに時計台が聳えていた。その時計台から夜毎にインターナショナルのメロディが響いて、こわれた屋根を見おろす伸子のホテルの窓へもつたわった。クレムリンの城壁からは、そのなかに幾棟もある建物の屋根屋根の間に、高く低く林立という感じで幾本もの黄金の十字架がきらめいていた。広場のつき当りに、一面平らな雪の白さに挑むように、紅白に塗りわけられたビザンチン教
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