りながら、
「まあ、おかけなさい」
 格別自分のかけている椅子をどこうともしないで云った。三人はだまっていた。すると、比田がその男に、
「――飯山に会われましたか」
ときいた。
「いいや」
「あなたをさがしていましたよ」
「ふうむ」
 なにか思いあたる節があるらしく、その男は比田から火をもらったパイプをくわえると、大股に広間の方へ去った。
「何の商売かしら――あのかた……」
 そのうしろ姿を目送しながら伸子がひとりごとのように云った。
「軍人さん、ですよ」
 やっぱりその肩のいかつい男のうしろ姿を見守ったまま、伸子の視線は、スーと絞りを狭めたようになった。秋山宇一が、われわれは、こまかく見られている[#「こまかく見られている」に傍点]、と云った、そのこまかい[#「こまかい」に傍点]目は、こういう一行のなかにもまぎれこんでいるのだろうか。
 伸子は、やがてかえり仕度をしながら、
「ここよりベルリンの方がよくて?」
と比田礼二にきいた。
「さあ、ここより、と云えるかどうかしらないが、ベルリンも相当なところですよ、このごろは。――ナチスの動きが微妙ですからね。――いろいろ面白いですよ。ベルリンへはいつ頃来られます?」
「まるで当なしです」
「是非いらっしゃい。ここからはたった一晩だもの。――案内しますよ。僕が忙しくても、家の奴がいますから……」
「御一緒?」
「――ドイツで結婚したんです」
 その室の入口のドアまで送り出した比田礼二と、伸子は握手してわかれた。
 藤堂駿平の一行で占められているサヴォイ・ホテルの奥まった一画から、おもての方へ深紅色のカーペットの上を歩いて行きながら、伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいる同じ新聞の特派員の生活を思いうかべた。その夫婦は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の住宅難からある邸の温室を住宅がわりにして、そのガラス張りの天井の下へ、ありとあらゆるものをカーテン代りに吊って、うっすり醤油のにおいをさせながら暮しているのだった。
 棕梠の植込みで飾られたホテルの広間から玄関へ出ようとするところで、
「おお、サッサさん、おめにかかれてうれしいです」
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]には珍しい鼠色のソフトを、前の大きくはげた頭からぬぎながら伸子に向って近よって来るクラウデに出あった。一二年前、レーニングラードの日本語教授コンラード夫妻が東京へ来たとき、ひらかれた歓迎会の席へ、日本語の達者な外交官の一人としてクラウデも出席していた。黒い背広をどことなしタクシードのような感じに着こなして、ほんとに三重にたたまってたれている顎を七面鳥の肉髯のようにふるわしながら流暢《りゅうちょう》な日本語で話すクラウデの風※[#「耒−人」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》は、そのみがきのかかり工合といい、いかにも花柳界に馴れた外国人の感じだった。その席でそういう印象を受けたぎり、人づき合いのせまい伸子は、いつクラウデがロシアへかえったのかもしらなかった。
 ところが、伸子がこっちへ来てから間もないある晩、芸術座の廊下で声をかけた男があった。それがクラウデであった。三重にたたまっておもく垂れた顎をふるわしてものをいうところは元のままであったが、そのときのクラウデには、東京で逢ったときの、あの居心地わるいほどつるつるした艷はなくなっていた。彼の着ている背広もあたりまえの背広に見えた。クラウデはまた日本文学の夕べにも来ていた。そして、いま、またこのサヴォイ・ホテルの廊下で出あったのだった。クラウデは、愛嬌のいい調子で、
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の冬、いかがですか」
と云った。
「あなたのホテルは煖房設備よろしいですか」
「ええ、ありがとう。わたしは、冬はすきですし、スティームも大体工合ようございます。あなたは、日本の冬を御存じだから……」
 伸子はすこし別の意味をふくめて、ほほ笑みながら云った。
「日本の雪見の味をお思い出しになるでしょう?」
「おお、そうです。ユキミ――」
 クラウデは、瞬間、遠い記憶のなかに浮ぶ絵と目の前の生活の動きの間に板ばさみになったような眼つきをした。しかしすぐ、その立ち往生からぬけ出して、クラウデは、
「サッサさん、是非あなたに御紹介したいひとがあります。いつ御都合いいでしょうか」
と云った。伸子は語学の稽古や芝居へゆく予定のほかに先約らしいものもなかった。
「そうですか、では、木曜日の十五時――午後三時ですね、どうかわたしのうちへおいで下さい」
 クラウデは小さい手帖から紙をきりとって伸子のために自分の住所と地図をかいてわたした。

 ボリシャーヤ・モスコウスカヤと並んで、大きく古びたホテル・メトロポリタンの建物がクレムリンの外壁に面してたっていた。約束の木曜日に、伸子はその正面玄関の黒くよごれた鉄唐草の車よせの下から入って行った。もとはとなりのボリシャーヤ・モスコウスカヤのように派手な外国人向ホテルだったものが、革命後は、伸子の知らないソヴェトの機関に属す一定の人々のための住居になっている模様だった。受付に、クラウデの書いてよこした室番号を通じたら、そこへは、建物の横をまわって裏階段から入るようになっていた。伸子は、やっとその説明をききわけて、大きい建物の外廓についてまわった。
 積った雪の中にドラム罐がころがっているのがぼんやり見える内庭に向って、暗い階段が口を見せていた。あたりは荒れて、階段は陰気だった。冬の午後三時と云えば、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の街々にもう灯がついているのに、ホテルの裏階段や内庭には、灯らしい灯もなかった。伸子は、用心ぶかくその暗い階段を三階まで辿りついた。そこで、踊り場に向ってしまっている重い防寒扉を押して入ると、そこは廊下で、はじめて普通の明るさと、人の住んでいる生気が感じられた。でも、どのドアもぴったりとしまっていて、あたりに人気はない。伸子は、ずっと奥まで歩いて行って、目ざす番号のドアのベルを押した。靴の音が近づいて来て、ドアについている戸じまりの鎖をはずす音がした。ドアをあけたのはクラウデであった。
「こんにちは――」
「おお、サッサさん! さあ、どうぞおはいり下さい」
 そういうクラウデの言葉づかいはいんぎんだけれども、上着をぬいで、カラーをはだけたワイシャツの上へ喫煙服をひっかけたままであった。クラウデは日本の習慣を知っている。日本の習慣のなかで女がどう扱われているかということを知りぬいている外国人であるだけ、伸子はいやな気がして、
「早く来すぎたでしょうか」
 ドアのところへ立ったまま少し意地わるに云った。
「たいへんおいそがしそうですけれど……」
「ああ、失礼いたしました。書きものをしていまして……」
 クラウデは、腕時計を見た。
「お約束の時間です――どうぞ」
 伸子を、窓よりの椅子に案内して自分は、二つのベッドが並んでおかれている奥の方へゆき、そっちで、カラーをちゃんとし上衣を着て、戻って来た。
「よくおいで下さいました。いまじき、もう一人のお客様も見えるでしょう」
 クラウデの住んでいるその室というのは奇妙な室だった。大きくて、薄暗くて、二つのベッドがおいてあるところと、伸子がかけている窓よりの場所との間に、何となし日本の敷居や鴨居でもあるように、区分のついた感じがあった。窓の下に暮れかかった雪の街路が見え、アーク燈の蒼白い光がうつっている。窓から見える外景が一層この室の内部の薄暗さや、雑然とした感じをつよめた。黙ってそこに腰かけ、窓のそとを眺めている伸子に、クラウデは、
「わたしは、ここにブハーリンさんのお父さんと住んでいます」
と云った。
「ブハーリンさん、御存じでしょう? あのひとのお父さんがこの室にいます」
 伸子はあきらかに好奇心を刺戟された。伸子がよんだたった一つの唯物史観の本はブハーリンが書いたものであったから。
「ブハーリンの本は、日本語に翻訳されています」
 伸子は、ちょっと笑って云った。
「お父さんのブハーリンも、やっぱり円い頭と円い眼をしていらっしゃいますか?」
 単純な伸子の質問を、クラウデは、何と思ったのかひどく真面目に、
「ブハーリンさんのお父さんは立派な人ですよ」
と、なにかを訂正するように云った。
「わたしたちは、一緒に愉快に働いています」
 しかし、伸子はちっとも知らないのだった、三重顎のクラウデが、現在モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でどういう仕事に働いているのか。――
 クラウデは、ちょいちょい手くびをあげて時計を見た。
「サッサさん、もうじき、もう一人のお客様もおいでになります。わたくし、用事があって外出します。お二人で、ごゆっくり話して下さい。……それでよろしいでしょう?」
 クラウデにとってそれでよいのならば、伸子は格別彼にいてもらわなくては困るわけもなかった。
「いま来るお客さま、中国のひとです。女の法学博士です」
 そのひとが伸子に会おうという動機は何なのだろう。
「でも、わたしたち――そのかたとわたし、どういう言葉で話せるのかしら――わたしのロシア語はあんまり下手です」
「そのご心配いりません。英語、達者に話します」
 また時計をみて、クラウデは椅子から立ち上った。
「御免下さい。もう時間がありませんから、わたくし、失礼して仕度いたします」
 薄暗い奥の方で書類らしいものをとりまとめてから、クラウデは低い衣裳箪笥の前へもどって来た。そこの鏡に向って、禿げている頭にのこっている茶色の髪にブラッシュをかけはじめた。はなれた窓ぎわに、クラウデの方へは斜めに背をむけて伸子がかけている。その目の端に思いがけないピノーのオー・ド・キニーヌの新しい瓶が映った。伸子は駭《おどろ》きににた感じをうけた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、この雑然として薄暗い独身男の室で、子供のときから父親の匂いと云えば体温にとけたその濃く甘い匂いしか思い出せないオー・ド・キニーヌの真新しい瓶を見出したのは意外だった。この化粧料はあたりまえではモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で買うことの出来ないものでもある。柘榴《ざくろ》石のように美しく深紅色に輝いて鏡の前におかれているオー・ド・キニーヌの瓶は、父を思い出させるだけ、よけい伸子に、クラウデの生活をいぶかしく思う感情をもたせた。舶来もののオー・ド・キニーヌ。そして、ブハーリンさんのお父さん。それらはみんなクラウデと、どんなゆきがかりを持っているのだろうか。伸子のこころに、えたいのしれないところへ来たという感じが段々つよくなりかかった。そのとき、大きなひびきをたてて入口のベルが鳴った。
「ああ、お客様でしょう」
 出て行ったクラウデは、やがて一人の茶色の大外套を着た女のひとを案内して戻って来た。襟に狼の毛のついた外套をぬぎ、頭をつつんでいた柔かい黒毛糸のショールをとると、カラーのつまった服をつけた四十近い婦人が現れた。男も女も頬っぺたが赧くて角ばった体つきのひとが多いこのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、その中国婦人の沈んだクリーム色の肌や、しっとりと撫でつけられた黒い髪は伸子の目に安らかさを与えた。
 時間を気にしているクラウデは、あわただしくその中国婦人と伸子とをひきあわせた。
「リン博士です。このかたの旦那様、やっぱり法学博士で、いまはお国へかえっておられます」
 リンという婦人に、クラウデはロシア語で紹介した。
「お話しした佐々伸子さん。日本の進歩的な婦人作家です」
 そして、リン博士と伸子とが握手している間に、
「では、どうぞごゆっくり」
と、クラウデは、外套を着て室から出て行った。
 やっと、きょうここへ来た目的がはっきりして、同じ薄暗く、ごたついた室にいても伸子は気が楽になった。伸子は、ほぐれくつろいでゆく心持から自然に、にっこりして、リン博士を見た。
「…………」
 伸子の人なつこいその気分を、聰明らしい落付いた眼のな
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