謔、に、多計代は先入観でかたまった声を出した。
「伸ちゃんがエゴイストだってことはわかっていますよ」
苦笑してだまっているために、伸子は努力した。そして心のなかに思うのだった。四十日も、船のなかでごちゃごちゃして来たのがわるいのだ。みんなが少し、神経をどうかしている。早くパリへ行くことだ。そしてそれぞれに気をちらすことだ、と。
伸子はつや子をつれて別に部屋をとり、そちらで眠るつもりだった。けれども、多計代の主張で、夫婦の寝室にもう一台寝台がはいり、伸子もそこへ泊ることになった。
日本浴衣のねまきに着換えた多計代は、煖炉棚の上においてある錦のつつみものに向って、よく響くかしわで[#「かしわで」に傍点]を二つうちならした。それから、寝台にはいった。伸子は、気まずい思いでその儀式の終るのを待って、多計代のわきへ横になった。母のもう片方の側には、つや子がくっついた。
「おかあさま、うれしい? サンドウィッチだから」
昼間のいろいろなことであんなに伸子を傷つけた、そのひととは思えないうれしさのあふれた眼つきで、多計代は大きい白い枕の上で、頭をあっちに動かして、いくらか汗っぽい下の娘の十三歳の顔を眺め、こんどは頭をこっちに向けて、さっぱりしたうちにも、表情の成熟して来ている三十歳の伸子の顔を見た。そして、伸子がきかえた薄黄色地に小花模様の両腕の出る寝間着を、
「かわいくて、いいこと」
とほめた。
「それにしても、よく吉見さんが伸ちゃんを一人でよこしたね」
そんなことを云っている多計代はほとんどあどけないようで、一つ枕の上に並んだ多計代の髪が前髪をつめられ、八分どおり白くなっていることも、そこに不手際に黒チックが塗られていることも、伸子の心を動かすのだった。若いうちから最近まで多計代の御自慢だった、顎から喉へかけての柔かくゆたかな線がやせたためにゆるんで、喉に、年よりらしい二つのすじが立って見える。多計代の柔かな顎の下へ伸子は顔をおしつけた。伸子は小さな声で、
「やっぱりおかあさまのにおいがする」
と云った。
「何だろう、この人ったら。牛の子みたいだよ」
「こっち向いて! おかあさま。このひとも牛の子にして」
電燈を消そうという気になる者のいない寝室で、妻と二人の娘が一つ寝台の中でごたついている光景を、泰造は隣りの寝台からまばたきもしないで眺めていて、笑った。
「なかなか、いい景色だよ」
「お父さま、すみませんね、おひとりで……」
多計代にはめずらしい愛嬌だった。
「いいわ、お父さま。いまにそっちへ行って、お父様もサンドウィッチにしてあげるの」
そういうのはつや子だった。伸子は、笑って何とも云わなかったが、父のよこにねることには、伸子だけのはずかしさがあった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ立って来る前、もうそれは十二月にはいってからの東京の寒い夜のことだったが、泰造は風邪気味だといって早く床にはいっていた。その枕もとへ行って、伸子は朝鮮銀行のことか何かきいた。用事がすんでも話していた伸子が、この部屋、思ったよりさむいのね、と云ったら、泰造は、何だ、座蒲団もしいていないじゃないか、ここへおはいり、さ、いいからおはいり、と夜着の袖をもち上げて、そのなかへ伸子をいれた。そして、こんな手をしている、とひやひやになっている伸子の丸くなめらかな手を、あったかい自分の両手の間にはさんだ。さ、もっとよくはいってあったまりなさい。泰造はそう云いながら、行儀よく着もののなかで膝をそろえて横たわっている伸子の脚に、自分の片脚をからめて、ひきよせるようにした。それは、全く自然な父親の情愛のしぐさであったけれども、同時に、男のしぐさでもあった。伸子は、その瞬間に感じたつよいはずかしさをいまでもおぼえていた。父は無邪気であり、自分は、結婚生活を知っている年かさの娘として、無邪気でなかった。そういう自分を伸子は忘れないのだった。
つや子がわかれて泰造の寝台へ行き、多計代は伸子と夜がふけるまで話した。話しにでることは、どれもこれも船の上でのことだった。それほど心がとけても、多計代は保については姉である伸子にかたく唇と心とを閉して、ひとこともふれようとしなかった。
四
ごたついた佐々のうちの一行にとって、皮肉なほど似合いのホテル・アンテルナシオナールでの生活がはじまったとき、伸子に思いがけない困難を感じさせた第一のことは、みんなの一日の行動のプログラムを組み立てるという仕事だった。
多計代の疲れは見た目にもあらわで、多計代が、できるなら食事もホテルの室でとって、安静にしていなくてはいけない状態であることは、あきらかだった。そのために、つや子のほかの、誰かうちのものが、多計代についてホテルにのこっていなければならなかっ
前へ
次へ
全437ページ中243ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング