オて実感をもって描写されている小説の他の部分とくらべて、伸子にはそれが不可解だった。作者が、気づかずつい書いてしまっているのだとは思えなかった。不注意ということで、こんなにくりかえしがされるものだろうか。
伸子は、雨にぬれた街の夜空に赤くネオンが燃えている窓からはなれて、テーブルへもどり、またその小説のところどころをあけて見なおした。同じ号に「解決された問題と新しき仕事」という織原亮輔の論文があり、その前月号に篠原蔵人の「芸術運動における左翼清算主義」森久雄の「プロレタリア大衆文学の問題」というのがあった。レーニンやルナチャルスキーの引用にみちているこれらの論文はどれもプロレタリア文学そのほか階級的な芸術運動が、大衆の生活へ結びついて行かなければならないということについての討論だった。結論として、誰にでもわかるような小説の必要ということが力説されていた。小林多喜二という人は、もしかしたらやさしい小説をかこうと思って、ビクビクとかモジモジとかいう表現を、こんなに多すぎるほどとり入れたのではなかろうか。伸子は、このモグモグビクビクのために、せっかくしっとりした小説の世界は安価にさせられ、重量を失っていると感じた。しかし、と、伸子はまた視点をうつして考えるのだった。伸子がそう感じるということが、とりもなおさず、ルナチャルスキーが排除しなければならないものと云っている、そして森久雄がこの雑誌の論文に引用している「あらゆる芸術的条件性及び洗煉性」だと云うのだろうか。伸子自身は、「洗煉性」の中で腐ってゆく文学に反抗しつづけて来ている自分として感じているのではあったが。――
二冊の「戦旗」の記事には伸子にわかるところと、わからないところがあった。全日本無産者芸術連盟は略称をナップNAPFと云っていた。その常任委員会の名で「論争の方法に関する意見書」というものが「戦旗」にのっていた。その文章は、伸子をひそかにおどろかすのだった。云われている意味は、議論のための議論にとらわれてしまうのは間違っている、という尤《もっと》もな、わかりやすいことらしかった。そのわかりやすいことをいうのに、この意見書の云いまわしはその趣意とは正反対に、口のはたがこわばっている人がいう言葉のようにぎごちなくて、大がかりに理窟っぽい言葉をひきずりまわしている文章だった。それでも、マルクシストであるこの人々が、こういう文章をかくのは正しくて、悪文というのは間違いなのだろうか。同じような伸子の当惑は、篠原蔵人そのほかの人々が書いている論文からも与えられた。これらの人の云いまわしから、伸子にとってはよけいだと思える箇所をみんな一応どけて見て、はじめて伸子に論文の趣意がつかめた。そういうしまつだけれども、そのむずかしく混雑した論文は、プロレタリア文学は、誰にでもわかるものでなければならないことを主張するために、かかれているものなのだった。
こういうことは、みんな伸子によくわからなかった。日本のマルクシストという人々の間に習慣づけられている特定の用語法。あたりまえの言葉づかいをしているものには変に思えるまわりくどさ。そこにある不思議な矛盾を、伸子はまじめに苦しさをもってうけとった。駒沢の家へ見知らぬ人が訪ねて来たときのように、篠原蔵人の書くものはわからないわ、引用だけのようで、とほほえんでいる気持は、もうきょうの伸子にはなかったから。それらの人々の目に映る伸子が何であるにしろ、伸子自身は明日に自分をむすびつけずにはいられないし、そういう云いまわしと無縁な自分を感じて居られなくなっているのだから。――
一見非常に堅牢そうに、理論で組みたてられているように見えるもののうちにあって、誰からも気づかれずにいる奇妙な矛盾。伸子は、ふと似たようなものが、ベルリンにいる川瀬勇たちの生活気分のうちにもあるのではないかしらと思った。その思いあたりは、女としての伸子を、何かしら感覚的にはっとさせるようなものをもっているのだった。
また伸子が窓の前へ立って、雨足のつよい夜の鋪道を見おろしているところへ、うしろのドアがあいた。
「なんだぶこちゃん、まだ仕度もしてないのか」
それは湯あがり姿の素子だった。
「すぐ行きなさい。ここのおやじのことだから、どうせすぐあとをぎっしり詰めているにきまってるんだから」
「じゃ、すぐ出して来るわ」
伸子は浴槽へ湯をみたして来るつもりだった。すると、
「すぐはいれるようにして来てあるんだよ」
あるんだよ、というところへ一種のアクセントをつけて、いつもそういうときの素子の、自分の親切がくやしいような口調だった。
「どうもありがとう、じゃ、はいって来る」
三十分ほどして、伸子は顔も体もさっぱりと桜色になって、洗った断髪をタオルできつくこすりながら戻って来た。素
前へ
次へ
全437ページ中230ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング