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 川瀬がそう説明した「戦旗」には、評論家篠原蔵人や詩人の織原亮輔、森久雄などの論文のほかに、在ベルリン鈴村信二という名でドイツ労働者演劇に関する覚え書という記事もあり、ピスカトールの演劇論と大戦後の有名な反戦諷刺小説「勇敢な兵士シュウェイクの冒険」の舞台が紹介されていた。一冊の、ソヴェト革命記念号には、小林多喜二というひとの「一九二八年三月十五日」という小説がのっていた。「前哨戦」という同人語の欄で篠原蔵人が、その小説について書いていた。「成程そこには非常に多くの芸術的欠陥がみられる。だが、作者が我々に最も近い、最もヴィヴィッドな問題を小さなエピソードとしてではなく、大きな時代的スケールの中に描き出そうとした努力のなかには、プロレタリア文学の今後の発展に対する一つの重要な暗示が含まれている」と。
 伸子は「戦旗」をかりて来た日から、折にふれてはその二冊をかわりばんこにくりひろげて、読んで見るのだった。そこにのっている小説は、どれも戦争反対の主題や権力の横暴をばくろした作品だった。プロレタリア作家とよばれている人々がそういう主題を選んで書くことや調子に激しさのあることは、伸子にもその必然がよくわかった。三・一五の事件があってから、ひろくもない日本のなかで、革命的な大衆は、弾圧の二十四時間の中で生きなければならなくなっているのだから。その余波は、形こそかわっているがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の伸子の生活にまで及んだ。
 けれども――それにしても、と、伸子の心はこれらの小説についての疑問をいだいた。そこではすべての小説が叫びのようだった。これらの小説には何とたくさんのエキスクラメーション・マークがあるだろう。そして、小説の世界は、その小説を書いている人たちが階級的な亢奮で力を入れてこわばらしている肉体そのもののように、主題を主張し、こわばって、封鎖されている感じがした。読むものが、そのときどきの心のまま、ひとりでにその小説の世界へはいって、いつかそこに表現されている世界にとけ入るような戸口がついていないように、伸子には息づまって感じられるのだった。
 無産派の小説は伸子がまだ日本にいたころにあらわれはじめた。「セメント樽の中の手紙」「施療室にて」「三等船客」そんな小説があった。それらはそういう人々の生活と文学とから遠く暮している伸子にも感銘を与える強烈なものがあった。そこには、金のない民衆、みじめな人間、破綻におかれた人間の生な情熱の爆発があった。しかし、プロレタリアートというものの意味はつかみ出されていなかった。それから、丁度伸子たちがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に立って来る前後から、ひとくるめに無産派の文学と云われていたグループの中に階級性の問題がとりあげられ、アナーキズムとマルクシズムの対立、そして分裂がおこった。伸子と素子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で暮した一年半ばかりの間に、マルクス主義に立つ文学を求める人々のグループが「文芸戦線」から分離して、やがていま伸子が見ているような「戦旗」も出されるようになった。伸子が川瀬にかりてルドウィクの部屋へもって来た二冊の「戦旗」のこまごました記事は、「文戦」が社会民主主義者のあつまりでしかないこと、新労農党を支持する日和見主義者たちであることを痛烈に非難しているのだった。
 去年の夏、レーニングラードにいたとき弟の保が自殺した。それから、伸子は一つも小説をかいていなかった。旅行記もかいていなかった。保の自殺から打撃を蒙って、ものがかけなくなったというよりも、伸子の場合は、その深い打撃から立ち直って来たとき、伸子はどこやらもとの伸子でなくなってしまったからだった。これまでのとおり自分の小説の世界へおちつけず、それならばと云って、自分を何に表現していいか分らないようなところのできた伸子として、伸子は、ベルリンに来ているのだった。
 ルドウィクのベルリン風に清潔だが情趣にとぼしい室のなかで、雨の降る夜の街を窓の下に眺めながら、伸子は、テーブルのまわりをぶらついていた。小林多喜二という人の「一九二八年三月十五日」という小説は、連載の一部だった。その小説には、ほかの作品にない骨格の大きさが感じられ、人間の心と体の動きのあったかく重い柔軟さもにじんでいた。闘士龍吉の妻であるお恵が、スパイをいやがり、残虐な横柄さをきらい憎む感情の描写が、伸子に共感された。お由も伸子にわかり、会社員佐多とその母親の素朴で真情のある描きかたは、この小説の背景となっている北の国のどこかの港町に生きている人々へ伸子を結びつける。でも、どうしてこの小説にはこんなにビクビクとかモグモグとかネチネチ、モジモジ、ウロウロという表現がばらまかれているのだろう。手数をいとわず、そ
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