g及した。
「どっちみち、みなさまソヴェトの様子は御自分でじかに見ていらっしゃるのが一番いいんです」
 伸子は、本気で他意なくみなにそれをすすめた。
「わたしの話をもの足りなくお思いになったり、半信半疑でいらっしゃるのは、当然だわ。よそと全くちがうんですもの。ほんとに、どなたにしろ、行って御覧になればいいのに――経験も自信もおありになるんだから……ここからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]までは一晩よ」
 そう云って、伸子は反響をもとめるように若い人々がかたまっているカミンの横の席の方を眺めた。さっき、怜悧で皮肉な微笑を泛べながら伸子を見ていたひとは、やっぱり腕組みした肩を軽くカミンにもたせ、くみ合わせた脚をふっているが、視点は低く足許のどこかにおかれている。テーブルに向っている半白の髭のひとは、こげ茶色の服を着て鼻髭のある隣席のひとと、伸子にはそれが伸子を無視したことを示すものだと感じとれる態度で私語しはじめた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へみんなが自分で行って見て来るように、という伸子の実際的なすすめは、その夜、伸子が話したどの言葉よりも吸収されずに、伸子のそういう声がひびいたそのところにそのままかかっているのだった。
 ひきつづいて何かうち合わせをするという皆より一足さきにその室をでるとき、伸子と素子とは木曜会の客として、来週のうちに二ヵ所で行われる見学――セント・クララ病院とベルリン未決監獄の病舎の視察に招待された。提案をしたのは津山進治郎であった。それはあっさり通った。伸子のまたいとこにあたる津山進治郎は、ただ一人の医学博士であるというばかりでなく木曜会には何かの角度から発言権をもつ存在であることが感じられた。
 あと味のわるい気もちで、伸子と素子は息ぐるしい室を出た。そして、控間へ出たとき、伸子はそこに思いがけないものを見た。そこから奥の室にいた伸子が丁度見える控間の一隅に、人むれができていた。伸子たちが奥から出て来ると同時にそのかたまりもほぐれて、玄関のホールへ出てゆく人たちの後姿、廊下から階段をのぼってゆく人々。まだそこに佇んでタバコをつけながら、通りがかる伸子と素子とを目送している人達。こんなところに立って話をきいていた人々があった。ベルリンには日本人が千人あまりもいるそうで、そこに三々五々見えている人たちの中に伸子の知った顔はなかった。でも、その人たちは、そこで伸子の話をきき、自然な雰囲気で、出て来る伸子にふれた。冷淡にその人々の間を通りぬけてしまってはわるいと感じた素振りで、伸子は、ちょっと歩調をゆるめた。しかし、何ということもなくて伸子は、身のこなし総体にさようなら、という気持をあらわしながら、日本人クラブの玄関を出た。
 重くカーテンをしめこんだ室内では、夜更けのようだった午後九時すぎも、戸外へでてみるとまだほのかに明るい初夏の宵だった。どれも同じな薄黄色い正面入口から歩道へおりて来る伸子と素子に、
「――御苦労さま」
 リンデンの街路樹の下にいた日本人のかたまりの中から、中館公一郎の声がよびかけた。
「なんだ、みんな来てたのか」
 すぐ素子がよって行った。
「きいていらしたの?」
 きまりわるそうにいう伸子に、
「初舞台《デビュー》だっていうのに、きかなくちゃわるいだろうと思ってさ。すすめた義理もあってね。万障くりあわせ」
 答えたのは、背の高い頭にベレーをかぶった川瀬勇だった。
 もち前のやわらかな口調で、
「佐々さんて、相当なもんなんですねえ」
 中館公一郎がいつも、まじめな内容をさらりという調子で云った。
「お歴々一視同仁という光景はなかなかよかった」
 伸子は、のぼせている頬に手の甲をあてながら、
「でも、あの半白なひと。――意地わるねえ」
 子供らしく訴えた。
「ありゃ、ちょいと来ている男だね。視察にね――はやりだから」
 芝居がはねでもしたあとのように素子が、わきから、
「とにかく、わたしは喉がかわいちゃった」
と云った。
「どっかへ行こうじゃありませんか」
「――ビールでもいいのかな」
「いいさ」
「佐々君はこまるんじゃない?」
 川瀬勇が、青年らしい気くばりでわきに立っている伸子をかえりみた。
「今夜は、佐々君が主賓なんだから」
「いいわ、何かたべられるところなら。――わたしおなかがすいちゃった」
 さもあろうという風にみんなが笑った。伸子たちをいれて六人ばかりのものは、ベルリンの白夜とでもいうように薄明い夜の通りをぶらぶら歩きだした。
 同じベルリンにいる日本人と云っても、この人たちと、今伸子たちがそこから出て来た日本人クラブの奥の室にいた連中とは、何というちがいだろう。年齢や職業がちがうばかりでなく顔だち、身なり、気分、住んでいる世界ががらりとちがってい
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