A《ベー》)全連邦共産党、ボルシェビキと、念入りにカッコつきの三つの字は、もっと日常的にこまかく伸子たちの生活にはいりこんでいた。新聞でも、ラジオでも、伸子が何よりもそれで啓蒙されている労働婦人用のさまざまなパンフレットの頁の上にも。|В《ウェー》・|К《カー》・|П《ペー》(|Б《ベー》)はもとより|K《カー》・|P《ペー》・|D《デー》の響は、一年半のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]生活のうちにいつか次第に変化して来ている伸子の生活のなかにとけているのだった。しかし伸子たちの前に、|В《ウェー》・|К《カー》・|П《ペー》(|Б《ベー》)の建物は、ついぞ一度もあらわれたことがなかった。全連邦共産党の本部はクレムリンの城壁の内側にあった。そこへ通るために、伸子たちのもっている日本外務省の旅券は、役に立たなかった。伸子は、ソヴェトの社会と政治の関係がいくらかわかって来るにつれてかえって、|В《ウェー》・|К《カー》・|П《ペー》(|Б《ベー》)に対する真偽とりまぜのものみだかさをもたなくなったばかりか、自分が政治的には組織のそとの人間であることを、常に明瞭にしていることを、階級的な良心の表現とする気持だった。ベルリンへ来ても、伸子のその態度は一貫しているのだった。そういう伸子の心もちは、一方から云えば各国にある前衛組織とその活動家に対して、まじめな敬意をさまされていることでもあった。したがって、伸子はいま幾冊かの画集や本を選び出している伸子たちの様子をその売店の机の前から眺めている婦人事務員の、もの柔らかだが商売人の愛嬌はどこにももっていないさっぱりした表情にも、無関心であることはできにくいのだった。
ゆっくり時間をかけて書籍を買ってから、三人は広場を横切って、ノイケルンの通りへ出た。地下鉄のステーションに向っていた川瀬勇は、歩きながら何か思いついたらしく、
「ついでに、もうひとところ、見せよう。カフェーだがね。なかじゃ、あんまり話ししない方がいいんだ」
土地なれない伸子と素子にそう注意してから、川瀬勇は一軒の小さなカフェーのドアを押して、女づれ二人をさきに入れた。
労働者地区にあるカフェーらしく、小さいテーブルと鉄の椅子がせまい店内におかれていて、カウンターにおかれた二つのニッケル湯わかしが唯一の装飾になっている。カウンターのうしろに、頭のはげたおやじが縞シャツの腕をまくりあげて立っていた。半ば裸体になった女の蒼い顔を大映しにした映画のビラがよこての壁に貼られてある。
川瀬は、すぐココアを三つ注文した。窓ぎわの席を選んでかけた川瀬からはななめうしろ、伸子たちに正面を向けるテーブルに、つれもない四十がらみの男が一人かけていた。椅子の上に両股をひろげてかけて、片手をズボンのポケットにつっこんでいる。からのコーヒー茶碗がその男の前のテーブルにのっていた。通りからそのカフェーへ入って来た途端、伸子は、川瀬がこのノイケルンでどういうカフェー風景を見せようとしたのか、察しがついた。伸子が思い出したのはワルシャワのメーデーの朝、素子と二人で逃げこんだカフェーにいた男たちのもっていた感じだった。ドアをあけて小さい店へ賑やかに入って来た伸子たちに鈍重なようで鋭い一瞥をくれたこの男の感じは、瞬間に、ワルシャワのあの朝伸子が理解していなかった多くのことを理解させた。テーブルへ運ばれて来たココアをかきまわしながら、川瀬はほんのちらりと片方の眉を動かして、伸子たちに合図した。
ココアをのみ終ると、川瀬と素子とがタバコを一服して、三人はそこを出た。
「わかったろう? この辺は到るところに、ああいうこぎたない眼だの耳だのがばらまかれているんだ。でも、このごろは連中も楽じゃないのさ」
川瀬はおかしそうに結んだままの口をひろげて笑った。
「あれ以来、連中はうっかり労働者住宅の窓の下なんか、うろつけないことになってしまったんだ。水はおろかもっと結構なものまで浴びなけりゃならないからね――あのとき子供まで見さかいなく怪我させたんだから、女連だって勘弁しやしないさ」
ベルリンへ来た翌日から伸子と素子とは、一日に一度は市内のどこかで川瀬勇、中館公一郎そのほか二三人の青年からできているグループと会った。川瀬や中館は、伸子たちの住所も、およそのつき合いの範囲も知っていた。けれども、伸子たちには中館の住所も川瀬の住居も告げられていなかった。これらの人々の日常生活の内容についても、伸子たちとしては自分たちに会っているときの彼ら、伸子たちと行動している間の彼らのことしか、知らないのだった。しかし、ベルリンでは日本人の間にそういうつき合いかたがあるのも伸子と素子とに、不自然でなくうけとられた。
八
生れた国のなかで、会ったこともな
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