ニ主張した論文に、ルナチャルスキーの解説の抜すいがそえられたものだった。伸子がどうやらそれをよむことができたのは去年のことだった。伸子として見まごうことのできないロマン・ローランの写真にひかれて、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たばかりだった伸子は、その古い文学新聞《リテラトゥールナヤ・ガゼータ》を大事に紙挾みの間にしまってもちつづけていたのだった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を立ってワルシャワへいったとき、伸子は、雰囲気的にポーランドのソヴェトぎらいを感じとった。一晩しかいなかったワルシャワでは一つの匂いのように伸子の顔の上に感じられた反ソヴェトの感情が、ウィーンへ来ると音楽についての公使夫人の話しかた、附武官のパン・オイロープへの肩のいれかた、黒川隆三の老成ぶったソヴェト批評と、どれもつながりをもち、一定の方向をとっている。その国の言葉が話せないということで、自分と全く種類のちがう同国人にまじってすごす不自然さについて伸子はまじめな感情にされた。あながち伸子自身がどうという政治的な立場をきめているのではないけれども、ソヴェトの現実を知っているものの心持としておのずから彼等と反対におかれるような場合、ウィーンでの伸子は、沈黙してしまうことが少くなかった。ここと、ここにいる人々と自分とのつながりは一時のものにすぎないということから、いつの間にかそういう伸子の態度がでていた。伸子とすれば、もしあしたになれば、ふたたびみることのないこの丘の斜面の風景であるにしろ、いま遠いところにあるどこかの建物の窓々が午後のある時間の日光をある角度から受けるとあんなに燃えるという事実は、伸子がそれを眺めようが眺めまいが、その事実独自の全さで存在しつづけるだろう。それがすべてに通じる事実というものの本体なのだ。
伸子は、ウィーン風の春外套の背中で女らしく結び飾りがゆれるのを意識しながら、一段一段のぼってゆく靴のつまさきに目をおとして、素子と黒川隆三がタバコをくゆらしている場所へもどって来た。
もどってみると、素子が、胸の前にくみ合わせた右手に長い女もちのタバコのパイプをもったまま、並んでその胸壁にかけている黒川を凝《じ》っと見て、議論している最中だった。
「へえ、妙な理論なんだな。じゃあ、あなたの社会主義じゃ、インテリゲンツィアってものが、それとして一つの階級だってわけなんですか」
「まあ、そうですな。――少くともインテリゲンツィアの独自性というもの、ビルドウングというものは守ってそれとして発展させてゆかなけりゃならんのです」
「そのビルドウングとかって、なんなんです?」
素子一流の率直なききかただった。
「日本語で云えば文化とでも訳すかな。ほんとはずっと複雑な内容をもったガイスティックなものなんですがね」
「ガイスティックてのは?」
つっこんでまた素子がきいた。
「精神的、或は知性的とでもいいますか」
皮肉な表情でそうやって、ぐんぐん追っかけてきくところは、素子だった。わきにきいていて伸子はふとユーモラスな気分になった。この素子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]である日内海厚と、ロシア字一字のよみかたについてひどく論判して、遂にどっちも自分が正しいとゆずらなかったことがあったのを思い出して。――
「ぶこちゃん、さっきから黒川君の社会主義理論というのを拝聴しているところなんだがね」
暗示的なまなざしで伸子をかえりみながら素子が云った。
「社会主義の理論というものは、元来三十何種とかあるんだってさ。――そうでしたねえ、黒川君。黒川君の社会主義ってのは、知識階級は知識階級、資本家階級は資本家階級として、それぞれの独自性において発展してゆくべきなんだそうだ」
「もちろん、労働者階級を基礎においての話ですよ」
伸子にむかって、黒川は補足した。
「大体日本のインテリゲンツィアが、猫も杓子《しゃくし》もロシアかぶればっかりして、何でもかんでも労働者、農民だってさわいでいるくらい滑稽で非理論的なことはありませんよ。そもそも社会主義ってのは、みんなが、無学な百姓や貧乏な労働者になることを目的としちゃいないんですからね。そうでしょう? すべての者がよりよく生活するのが目的なんです」
「じゃ、つまりこう?」
伸子は黒川隆三にききかえした。
「あなたの考えでは労働者は労働者として、インテリゲンツィアはインテリゲンツィアとして、資本家は資本家として、その区別をいまのままこういう工合でもちながら、よりよく発展して行くべきだっていうわけ?」
こういう工合というとき、伸子は、労働者、インテリゲンツィア、資本家という順に上へ上へとつみあげる手つきをした。
「いいや、社会主義の中では、知識が金の上にくるべきなんです。
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