「ている紅のさされた唇。細おもてできめのこまやかな顔にうっすりとお白粉がにおっていて、亢奮と精神集注と、そこから来る一種のぽーっとした表情にとけ合った若く燃える彼女の顔は、いくらか上向きかげんに聴衆に向ってもたげられていた。彼女の不均衡な足のはこびによって、彼女の左肩がどんなにひどくしゃくられ、一歩は高く、一歩は低く進まなくてはならないにしても、川辺みさ子は、かすかに開いて印象的な唇をもつ、その関西風の小さい白い顎を決してさげることはなかった。――

        五

 あと二日で、ウィーンを去るという日のことだった。伸子と素子とは、黒川隆三にたってすすめられて、ウィーンのまちはずれにあるカール・マルクス館というものを見学に出かけた。
 オーストリアの政権はキリスト教社会党にとられているけれども、ウィーン市の市政とウィーン州の政策はすっかり社会民主党に掌握されている。そして、百八十万の人口をもつウィーンは最近社会主義によって運営されている工業都市として、各国の注目をあつめている。
「あなたがたのような御婦人が、せっかくウィーンへ来て、あすこを観ないで行ったんではもの笑いですよ。僕だって、シェーンブルンへ案内したが、そっちへは連れて行かなかったなんて、あとで恨まれては遺憾ですからね」
 リンデンホーフというウィーン市の外廓にある労働者街までゆく電車の中で、黒川隆三は、ウィーンの社会民主党が、労働者福祉のためにどんな数々の事業を行っているか、なかでも、住宅政策と保護事業の成功について伸子と素子に説明した。ウィーンでは、借家人の権利を尊重して、大きな家屋を独占しているものに増加税法をかけるため、売買から利益を得ることが困難にされている。ウィーン市は、一九二七年にウィーンの土地の二七パーセント弱を市有にすることができた。それらの土地へ、これから伸子たちがみようとしている労働者住宅と同じものをどんどん建ててゆく計画なのだそうだった。
 電車がウィーンの街を出はずれるにつれて、市中の多彩で華美な雰囲気が、段々左右の町なみから消されて行った。伸子たちは、木造の低い小家やガソリン・スタンドの赤いタンクが目立つ、ひっそりした停車場で電車を降りた。そこからすこし歩いた小高いところに、名所の一つであるカール・マルクス館が建っていた。ひろやかな砂利道を入ってゆく中央に、丸々とした裸の子供が飾られている小噴水があり、それを灌木の低いしげみが囲んで、小公園の趣にベンチが置かれていた。各階ごとにテラスをもった近代風なアパートメントが、二|棟《ブロック》、たてにつらなって建てられているために、窓々やテラスの見とおしが賑やかにゆたかな効果で印象づけられる。一方は、もとからある何かの建物の古びた煉瓦の高くない外壁で、他の一方はゆるい斜面にはさまれたさほどひろくない面積が、日あたりよく快適につかわれているのだった。
「どうです――労働者住宅ですよ、これが」
 黒川隆三は、そう云いながら、第一の棟の地階の、廻廊になったところへ伸子と素子とをつれて行った。地階は、建物のあっち側へ通りぬけられる黒と白との市松模様のモザイックの廻廊だった。迫持天井に装飾ランプがつられていて、廻廊に面していくつかのドアが堅くしめられている。通路も、ごみの吹きたまりそうな廻廊の隅もこざっぱりと掃除がゆきとどいていて、しかも人影のないあたりの空気は、伸子に何だかなじみにくかった。週日で人々は働きに出ている午後の時間のせいだろう、と伸子は思った。
 黒川隆三は、ここへの常連の一人らしく、なれた様子で廻廊のつきあたりにしまっている一つのドアをノックした。ドアの上には、その建物全体の洋式につりあったおとなしさで図案風に17と番号が白くかかれている。
「ここに、シュミットという爺さんがすんでいるんです。古い旋盤工ですがね。――ひとつ内部を見せて貰いましょう」
 心やすい黒川隆三のノックは応えられず、二度三度間をおいてたたいても、ドアのあちら側に人の気配はなかった。
「留守らしいわね」
「爺さん、ふらふら出て行っちまったかな、天気がいいですからね」
 黒川隆三の口ぶりは、どういうわけか、たとえばいつもそこにいるはずにきまっている門番の姿が見あたらない、といったときの調子だった。
「その辺へ出て、待って見ましょうか」
 云われるままに、伸子と素子とはその廻廊から建物の裏側へぬけて、斜面を見はらす日ざしの気持よい石段の低い墻壁《しょうへき》に腰をおろした。五月の晴れた日光にやかれた石肌が、服をとおしてあついくらい伸子のからだにしみとおった。素子は早速タバコをとり出した。黒川隆三がマッチをすって火をつけてやった。その火が透明に見える。そこはそんなに明るい日向だった。風もない。
 伸子は、瞳をせばめたような
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