`ェの気持がもっともなことと思えているのだった。
 そして、きょうワグナーのオペラとしてきかれているのは、ワグナーがまだそんな手紙を皇帝にかいたりしなかったころ、初期の作品、ワグナーが若くて、貧しくて自分の途をさがしていた頃の「タンホイザー」などであることも、意味ふかいと思っているのだった。
 ベートーヴェンの音楽の人類的な本質、それは文学へもつきぬけて来ているほどの本質を、川辺みさ子が個人的な、天才の光輝[#「天才の光輝」に傍点]と思いちがいし、自分の光背ともして背負いあげたことは、愚かしい単純さであり、思いあがりとして、彼女の一人の女としての真実な悲劇まで嘲笑のうちに忘られた。でも――と伸子は、なお思いつづけるのだった。川辺みさ子のような天才[#「天才」に傍点]についての本質的な考えちがい、芸術が人々の心にしみ入り、そこに場所を占めてゆく過程とナポレオン風な力ずくのような征服をごちゃまぜにする途方もなさが、果して川辺みさ子の頭の中だけにあったことだろうか。伸子にはそう思えなかった。伸子が、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来るまでの生活でぶつかりつづけて来た母の多計代のものの考えかた、文学上の名声だの名誉だのというものについての感じかたは、伸子がまともに生きようと願えばそれとたたかわずにいられない本質のものだった。多計代の名声欲につよく反撥する伸子の心もちがそのまま川辺みさ子の天才主義に抵抗したのであってみれば母としての多計代とピアニストとしての川辺みさ子の態度に共通な世俗的な英雄主義があるわけだった。そして、詮じつめれば、それも二人の気の勝った女性が偶然もち合わせた共通な性格というようなものではなくて、個人と個人のたえまないはたき落しっこで一方は栄達し一方は没落してゆくという風な、激甚で盲目的で血みどろな生存のためのあらそいがよぎなくされている旧い社会のしきたりの中では、ひとりでに固められて来た観念でもある。ただ人々は、そのあらそいの凄まじさをむき出しにして、うっかり勝利の前ぶれなどをして自分への敵意を挑発する危険から身を守るために、つつましさだの、謙遜だのというつけ黒子《ほくろ》をはるのだ。伸子は日本の風習にある、ほとんど偽善に近いつつましさの強制について思わずにいられなかった。それは女にとって何と特別に負わされている重荷だろう。川辺みさ子には、生きてゆく要所要所につけ黒子《ほくろ》をはってゆく狡猾な用意がなかったのだ。彼女はおどろくほど一途で正直だった。伸子はそうも思うのだった。川辺みさ子の生涯には、川辺みさ子の生きた社会の姿がそっくり映し出されている。
 伸子の下宿のその室には、大きな煖炉がきられていた。冬の季節がすぎて、その中に火がたかれなくなってから程たっている。春の煖炉の、冷えてくらい炉の上の棚に、伸子が街で買って来たパンジーの花束が飾られている。
 その下をゆっくり歩きながら、ウィーンで命を絶った川辺みさ子がいまになってみれば、きょうの自分といくらもちがわない年ごろであったことを考え、伸子は新しい哀れに誘われた。あのことがあってから七年も八年もたった。伸子もモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てからは新しい社会が作家や音楽家の生活状態がどんなにいろいろな関係の面で変るものかという事実を目撃している。そういう理解の加わった気持で、しんみりと思いかえしてみると、伸子が自分のひとりの心の中で川辺みさ子と自分とが別ものであることをあんなに強調して意識し、一生懸命に自分とは反対の端へ川辺みさ子という存在を押しつけていたにしろ、ひっきょうその気がまえをもっているというだけでは、伸子が川辺みさ子から本質的に別な世界にいるということではなかった。伸子は、そのころ云われていた文士とか女文士とかいう言葉と、そこから連想されている生活ぶりに、嫌厭を感じ、反撥していた。けれども反撥していただけで、それにかわるものがなに一つ伸子にあるわけではなかった。文士の一人であり女文士であることを拒んでいる伸子にあるのは孤立だけだった。その孤立のなかで、伸子はもがきつづけて来ているのだった。
 静かな午後の横町の下宿の室でかすかにパンジーの花束がにおう炉棚の下にたたずみ、伸子はあれからこれへと心の小道をたどりながら、半ば無意識に、そこの小テーブルの上に立ててあるモツァルトの薄肉浮彫の飾りメダルを手にとった。ウィーン名物の薄肉浮彫の金色の面に、こころもち猫背で、というより鳩胸のような肩つきで、円い形のかつら[#「かつら」に傍点]をつけたモツァルトの横顔が浮き出ている。
 伸子は、川辺みさ子が、晴やかな裾模様につつまれた跛の姿で、ステージにあらわれたときの表情を、まざまざとおもかげにみた。拍手にこたえて何か云いたそうに少しあ
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