も、伸子の眼は雪の降っている窓のそとへひかれがちだった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の雪……活々した感情が動いて、伸子のこころをしずかにさせないのであった。雪そのものについてだけ云うならば、ハルビンを出たシベリア鉄道が、バイカル湖にかかってから大ロシアへ出るまで数日の間、伸子たちは十二月中旬の果しないシベリアの雪を朝から夜まで車窓に見て来た。それは曠野の雪だった。雪と氷柱につつまれたステイションで、列車の発着をつげる鐘の音が、カン、カン、カンと凍りついたシベリアの大気の燦きのなかに響く。白い寂寞は美しかった。列車がノヴォシビリスクに着いたとき、いつものとおり外気を吸おうとして雪の上へおりた伸子は、凍りきってキラキラ明るく光る空気がまるでかたくて、鼻の穴に吸いこまれて来ないのにびっくりした。おどろいて笑いながら、つづけて咳《せ》きをした。そこは零下三十五度だった。雪が珍しいというのではなく、こんなに雪の降る、このモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活が、伸子の予感をかきたてるのであった。
 食事も終りかかったころ、瀬川雅夫が、
「さて、あなたがたのきょうのスケジュールはどういう風です?」
と、伸子たちにきいた。
「別にこれってきめてはいないんですがね」
 きな粉《こ》色のスーツが黒い髪によく似合っている素子が答えた。
「大使館へでも一寸顔だしして来ようかと思っているんだけど。――手紙類を、大使館気づけで受けとるようにして来たから……」
 秋山宇一は、黙ったままそれをききながら小柄な体で、重ね合わせている脚をゆすった。
「じゃ、こうなさい」
 席から立ちかけながら、瀬川が云った。
「もう三十分もすると、どうせ私も出かけて|ВОКС《ヴオクス》へ行かなけりゃならない用がありますから、御案内しましょう。|ВОКС《ヴオクス》は、いずれ行かなければならないところでしょうから」
「それがいいですよ。|ВОКС《ヴオクス》を訪ねることは重要ですよ」
 濃くて長い眉の下に、不釣合に小さい二つの眼をしばたたきながら、我からうなずくようにして秋山宇一が云った。
「外国の文化人たちは、みんな世話になっているんですから」
「じゃ、それでいいですね」
 瀬川が実務家らしく話をうちきった。
「|ВОКС《ヴオクス》からは大使館もじきです」
 |ВОКС《ヴオクス》というのは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にある対外文化連絡協会の略称であった。この対外文化連絡協会は、ソヴェト同盟の各都市に支部をもっているとともに、世界の国々に出張してもいる。伸子たちが、旅券の裏書のことで東京にあるソ連大使館のなかに住むパルヴィン博士に会った。あの灰黄色の眼をした巨人のようなひとも|ВОКС《ヴオクス》の東京派遣員であった。こんど、佐内、秋山その他の人たちが国賓として来ているのも、万事は|ВОКС《ヴオクス》の斡旋によった。
 瀬川につづいて、出かける仕度に部屋へ戻ろうとする伸子たちに向って、茶道具がのったままのテーブルのところから秋山宇一が、
「|ВОКС《ヴオクス》で、すごい美人がみられますよ。イタリー語と日本語のほかはあらゆる国語を話すんだそうです。アルメニア美人の典型でね――まア、みていらっしゃい」
 笑いながらそう云った。

 黒い羊のはららごの毛皮でこしらえたアストラカン帽をかぶり、同じ毛皮の襟のついた外套を着た瀬川雅夫について、素子と伸子とは雪の降る往来へ出た。ホテルの前の大きい普請場の入口を、いま一台の重い荷馬車が入りかけているところだった。歩哨の兵士のきているのによく似た裏毛の防寒外套の胸をはだけたまま、不精ひげの生えた頬っぺたの両側に防寒帽のたれをばたつかせたまま、馬子は、
「ダワイ! ダワイ! ダワイ!」
と太い声で馬をはげまし、轅《ながえ》のところへ手をそえて自分も全身の力を出しながら、傾斜した渡板のむこうへ馬をわたらした。ダワイということばは、呉れ、という意味だとならった。馬子は、いかにも元気の出そうな調子でダワイ、ダワイと叫んだけれど、それはどういう意味なのだろう。一足おくれていた伸子に、
「ぶこちゃん!」
 素子が大きい声でよんだ。ホテルを出たばかりの街角に、三台橇が客待ちしていた。その一台に、素子がのりかけているところだった。日本風呂敷に包んだ大きい箱のようなものをわきにかかえた瀬川雅夫が、素子と並んでかけた。
「ぶこちゃん、前へ立つんだよ」
「どこへ?」
「ここへ――十分立てますよ」
 瀬川雅夫が防寒上靴をはいた足をひっこめながら云った。
「ほんの六七分のところだから大丈夫ですよ。却って面白いじゃないですか。……ほら、こうして」
 箱を素子にあずけ、瀬川は素子を自分の膝に半ばかけさせるようにした。

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