でしかなかった。
「これじゃ仕様がない、ぶこちゃん、電気つけようよ」
スイッチを押し、灯をつけてから、伸子はドアをあけて首だけ出すようにホテルの廊下をのぞいた。くらい十二月の朝の気配や降る雪にすべての物音を消されている外界の様子が伸子にもの珍しかった。廊下のはずれにバケツを下げた掃除女の姿が見えるばかりだった。廊下をへだてた斜向《はすむか》いの室のドアもまだしまったままで、廊下のはじにニッケルのサモワールが出してあった。サモワールは、ゆうべ秋山宇一が彼の室へとりよせて瀬川雅夫などと一緒に、伸子たちをもてなしてくれたその名残りだった。
ドアをしめて戻ると、伸子は腑《ふ》におちない風で、
「まだみんな寝てるのかしら――」
と小声を出した。
「まるでひっそりよ」
「ふうん」
ゆっくりかまえていた素子は、
「どれ」
とおき上ると、わきの椅子の背にぬぎかけてあったものを一つ一つとって手早く身仕度をととのえはじめた。
二人で廊下へ出てみても、やっぱり森閑として人気がない。伸子たちは、ドアの上に57という室番号が小さい楕円形の瀬戸ものに書いてある一室をノックした。
「はい」
几帳面なロシア語の返事がドアのすぐうしろでした。素子がハンドルに手をかけると同時にドアは内側へひらかれた。
「や、お早うございます。さあ、どうぞ……」
ロシア革命十周年記念の文化国賓として、二ヵ月ばかり前からモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に来ている秋山宇一は、日本からつれて来た内海厚という外語の露語科を出た若いひととずっと一緒だった。ドアをあけたのは、内海だった。
「どうでした――第一夜の眠り心地は……」
窓よりに置いたテーブルに向って長椅子にかけている秋山宇一が、ちょっとしゃれた工合に頭をうなずかせて挨拶しながら伸子たちにきいた。
「すっかりよく寝ちまった……なかなか降ってるじゃありませんか」
素子がそう云いながら近づいて外を眺めるこの室の窓は、二つとも大通りの側に面していて、まうように降る雪をとおして通りの屋根屋根が見はらせた。
「今年は全体に雪がおくれたそうです。――四日だったかな、初雪がふったのは――」
すこし秋田|訛《なまり》のある言葉を、内海は、ロシア語を話すときと同じように几帳面に発音した。
「もう、これで根雪ですね。一月に入って、この降りがやむと、毎日快晴でほんとのロシアの厳冬《マローズ》がはじまります」
秋山も、はじめてみるモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の冬らしい景色に心を動かされているらしかったが、
「じゃ、瀬川君に知らせましょうか」
と、内海をかえりみた。
「朝飯前だったんですか」
「ええ。あなたがたが起きられたら一緒にしようと思って」
「まあ、わるかったこと」
きまりのわるい顔で伸子があやまった。
「わたしたち、寝坊してしまって……」
「いや、いいんです。私どもだって、さっき起きたばっかりなんですから……しかしソヴェトの人たちには、とてもかないませんね、実に精力的ですからね。夜あけ頃まで談論風発で、笑ったり踊ったりしているかと思うと、きちんと九時に出勤しているんだから……」
そこへ、黒背広に縞ズボンのきちんとした服装で瀬川雅夫が入って来た。日本のロシア語の代表的な専門家として瀬川雅夫も国賓だった。演劇専門の佐内満は十日ばかり前にモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]からベルリンへ立ったというところだった。
「お早うございます。――いかがです? よくおやすみでしたか」
秋山宇一は無産派の芸術家らしく、半白の長めな髪を総髪のような工合にかき上げている。瀬川雅夫は教授らしく髪をわけ、髭をたくわえている。それはいかにもめいめいのもっているその人らしさであった。その人らしいと云えば内海厚は、柔かい髪をぴったりと横幅のひろい額の上に梳《す》きつけて、黒ぶちのロイド眼鏡をかけているのだが、その髪と眼鏡と上唇のうすい表情とが、伸子に十九世紀のおしまい頃のロシアの大学生を思いおこさせた。内海厚自身、その感じが気に入っていなくはないらしかった。
やがて五人の日本人はテーブルを囲んで、茶道具類とパン、バタなどをとりよせ、殆ど衣類は入っていない秋山の衣裳|箪笥《だんす》の棚にしまってあったゆうべののこりの、塩漬|胡瓜《きゅうり》やチーズ、赤いきれいなイクラなどで朝飯をはじめた。
「ロシアの人は昔からよくお茶をのむことが小説にも出て来ますが、来てみると、実際にのみたくなるから妙ですよ」
瀬川雅夫がそう云った。
「日本でも信州あたりの人はよくお茶をのみますね――大体寒い地方は、そうじゃないですか」
もち前の啓蒙的な口調で、秋山が答えている。
うまい塩漬胡瓜をうす切れにしてバタをつけたパンに添えてたべながら
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