\―マドモアゼル」
直立して、乗馬靴の二つの踵をきつくうち合わせチャリンと拍車を鳴らし、笑いをふくんで白い麻の女もちハンカチーフを伸子にさし出した。社交にみがかれてつやのあるヴォアラ・マドモアゼルという云いかた。チャリンと澄んだ音でうち鳴らされた拍車の響。そして軽く指の先へひっかけるようにしてつまみあげたハンカチーフを小柄な伸子にさし出した身ごなし。そのひとつらなりの動作がまるで舞踊のひとくさりそのまま軽妙でリズミカルだった。
伸子は、あんまり人に見られるとも思わず佇んでいた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を立つ間ぎわになってから大急ぎで、そのカラーとカフスのところへ柔かな灰色のアンゴラ毛皮を自分で縫いつけて来た紺の合外套を着て。
そこへさし出されたものを見れば、思いもかけずいつおとしたのか、それが自分のハンカチーフであったのと、若い将校のひろってくれかたが、あんまり派手なサロン風なのとで、伸子はわれしらず耳朶を赤くした。そして、踊りあいての挨拶につい誘われたようなしなで、
「メルシ」
と礼を云った。若い将校は、羞《はじ》らいぎみに外国語をつかう伸子の顔にじっと笑いをふくんだ目を注ぎ、もう一度直立してその拍子に踵をうち合わせ、チャリンと拍車を鳴らして、去って行った。
対手が行ってしまうと同時に、伸子は急にきまりわるさがこみあげた。我にもなくつい気取って、メルシなんて云ってしまって。フランス語なんか知りもしない自分だのに。素子が見ていなくてたすかった、と伸子は思った。素子は支配人に向って少し声高なロシア語で談判めいて云っている。
「どうして? もちろんあなたは知っているはずだし、知っていなければならないでしょう、職務上……」
伸子は、わきへよって行った。
「どうしたの?」
ちらりと伸子を見て、意味ありげに苦笑しながら素子は日本語で、
「メーデーのことなんか知らないって云いやがる」
ワルシャワで、メーデーがどう感じとられているかということが、伸子たちに察しられた。伸子がかわって、英語で支配人に云った。
「宿帳《ゲスト・ブック》にかいたとおり、わたしたちは作家だから、五月一日の光景を観ることが必要なんです――行進はどこにあるんです?」
支配人は黒いフロックコートの腕をあげて鼻髭を撫でながら伸子のいうことをきいていたが、まるで出し惜しみするように、ドイツ訛のきつい英語で、
「行進は劇場広場に集ると、けさの新聞にはありました」
と答えた。つづけて、
「しかし危険です」真中からわけてポマードでかためている頭をふりながら警告した。「彼らが、どこで何をやるか、誰にわかっているもんですか。――御婦人の近よる場所じゃありません」
伸子と素子とが、あしたのメーデーについて支配人から知ることのできたのはメーデー行進は劇場広場に集るだろう、ということだけだった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を出るとき、彼女たちは、さて、これで今年のメーデーはワルシャワだ、と感興をもって期待した。去年のメーデーは、赤い広場の観覧席で、音楽につれ流れ去り流れ来る数十万の人々の行進を観た。町々が何と赤い旗と群集と歌とで埋ったろう。ウラア……という轟きに何という実感があったろう。行進が終った午後のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の、いくらかくたびれたような市中の静けさのうちにさえもとけこんで休日の空気を充していたあのよろこびと満足の感情。伸子にはその感銘が忘られなかった。ポーランドでは、どういうメーデーがあるのだろう。ワルシャワのメーデーを観る。どうせ、五月一日にワルシャワにいられるならそれは伸子にとっても素子にとっても、自然な興味のよせかたなのだった。
たしかな時間も場所もわからないままに、翌朝九時ごろ、伸子と素子はつれだってホテルを出た。
目をさました頃にはまだ降っていた雨がやっとあがって、歩道はうすらつめたく濡れていた。街路樹の春の芽もまだかたい枝々から大粒な雨のしずくが音をたてて落ちて、歩道をゆく伸子の肩にかかった。幾たびか通行人にきいていま伸子たちが来かかっているその通りは、市公園のどこか一方の外廓に沿っている道らしかった。低い鉄柵とその奥に灌木のしげみが見えている。規則正しく一定の間隔をおいて植えこまれている街路樹と鉄柵との間にはさまれている歩道は、ひやびやと濡れていて淋しいばかりでなく、人通りがごくたまにあるきりだった。その通行人も雨外套の襟を立てポケットへ両手をつっこんだ肩をすぼめるような姿で足早に過ぎてゆく。
伸子と素子とは、互にこれでいいのかしらん、と云いながら半信半疑で歩いて行った。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のようなメーデーの朝の気配があるはずはないにしても、こんなに
前へ
次へ
全437ページ中185ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング