オかった。
広場を見はらすホテルの二階正面の部屋がきまると、素子は早速ロビーへおりて、片隅の売店でタバコを買った。こんどの旅行では、少くとも数ヵ国のタバコをのみくらべられる、というのがタバコ好きの素子のたのしみなのだった。素子はロシヤ語でタバコ問答をはじめた。すると、若い女売子の唇にごく微かではあるが伸子がそれを軽蔑の表情として目とめずにいられなかったある表情が浮んだ。女売子はお義理に素子の相手をし、素子の顔をみないで釣銭をさし出しながら、フランス語でメルシと云った。
似たようなことがホテルの食堂でもおこった。伸子と素子のテーブルをうけもった年とった給仕は、素子の話すロシア語をすっかり理解しながら、自分からは決して同じ言葉で答えず、ひとことごとにフランス語でウイ・マダームと返事した。しごく丁寧に、そして強情に。――
食器のふれ合う音や絶間ない人出入りでかきみだされているその食堂の空気をふるわして、絃楽四重奏《ストリング・クワルテット》がミニュエットを奏している。伸子は、音楽に耳を傾ける表情で食事をはじめたが、やがて、
「あら。白いパン!」
びっくりしたような小声でつぶやいた。そして向い側の素子の顔を見た。
「ね?」
「ほんとだ。真白だ」
素子は自分のパンもさいてみて、
「パンが白いっておどろくんだから、われわれも結構田舎ものになったもんさね」
と苦笑した。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では、黒パンと茶っぽい粉でやいたコッペのような形のパンしかなかった。それに馴れてしまっていた伸子は、いま皿の上で何心なく割《さ》いたフランス・パンの柔かい白さに目から先におどろいた気持がしたのだった。でも、伸子には、雪白なパンの色が白ければ白いほど、それは何だかあたりのうすよごれた雰囲気と調和せず、ウイ・マダームとかウイ・メダーメとしか云わない瘠せこけた爺さんの給仕の依估地《いこじ》さと似合わないものに感じられるのだった。
食事がすんで、ロビーへ出て来ながら、素子が、ひやかし半分伸子に云った。
「ぶこちゃんにもなかなかいいところがある。ヨーロッパへ出てきての第一声が、あら、白いパン! てのは天衣無縫だ」
「だって、ほんとにそうじゃない?」
「だからさ、天衣無縫なのさ」
それにしても、ワルシャワの人々の、ロシアに対する無言の反撥は、何と根ぶかいだろう。帝政時代には、ポーランド語で教育をうけることさえ禁じられていた人々が、古いロシアへ恨みをもっているというのなら、伸子にものみこめた。けれども、現在になってまで、これほどロシア語に反感がもたれているとは思いがけなかった。
「ポーランドの人たちは、いまのロシアがどんなに変っているか、知らないのかしら。――まるで別なものになってるのに……」
遺憾そうに伸子が云った。ポーランドはソヴェト・ロシアになってから独立したばかりでなく、一九二〇年にウクライナのひろい地域を包括するようになった。
「あんまりいためつけられていたもんだから、猜疑心がぬけないんだろう。ソヴェトのいうことだって信用するもんか、と思っているんだろう」
ポーランドでは軍人のピルスーズスキーが独裁者で、ポーランドの反ソ的な民族主義の立場を国際連盟《リーグ・オヴ・ネイションズ》に訴えては、ウクライナを分割したりしている。元ソヴェト領だったウクライナのその地方では時々ユダヤ人虐殺があって、伸子たちはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の新聞で一度ならず無惨な消息をよんでいた。
伸子と素子とは、いそぎもしない足どりでホテルのロビーを帳場へむかった。明日のメーデーはワルシャワのどこで行われるのか。劇場の在り場所でもきくように伸子たちはそれをホテルのカウンターできこうとしているわけだった。
ロビーのひろさに合わして不釣合に狭苦しい古風なカウンターのところでは、折から到着した二組の旅客が、プランを見て、部屋をきめているところだった。その用がすむのを待って、伸子たちはわきに佇んだ。旅客たちはドイツ語で話している。いかにも職業用にフロックコートを着た支配人が、ヤー・ヤーとせっかちに返事して、何かこまかいことを云っているらしい一組の夫婦づれの方の細君に答えている。大きな胸の、赤っぽい髪の細君が、内気そうに鼻の長い顔色のよくない亭主をさしおいて旅先のホテルの泊りにも勝気をあらわして交渉している光景が面白くて、伸子は、いつの間にか自分がハンカチーフを落したことを知らなかった。
そこへいかにも、このホテルのどこかで催されている宴会へでも来ているらしい一人の若いポーランド将校が華やかな空色の軍服姿で通りあわせた。彼はすっと瀟洒に身をかがめて伸子が落して知らずにいたハンカチーフを赤いカーペットの上からひろいあげると、
「ヴォアラ。
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