ソまねされるから、伸子は娘として我慢ならなかった。母と娘とさし向いならば衝突は烈しく互に涙を流し合おうとも、多計代に対する心底からの嫌悪がのこされて行くようなことはないのに。佃と結婚した当時のごたごたの間多計代は伸子をしばしば泣かせ、娘に対して母親だけの知っている苦しめかたで絶望させた。でもあのころは母だった。伸子が泣いてものの云える母であった。あのころはまだ二人の間に立つものは存在しなかった。やがて越智があらわれ、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へまでこういう人があらわれて。――母が肉親の情のあらわれだと信じて行う工作は伸子の心を多計代に対して警戒的にするばかりだ。多計代は致命的なこのことに心づかないのだろうか。たった一度しかあったことのない軍人に、それが旧くから知ったもののところへ義妹を縁づけた人だというだけの因縁で、おそらくは、軍人だからたしかだと信じて多計代が自動車で駈けつけ、伸子の思想上のこともよろしくお願いいたしますとたのんでいる情景を想像すると、伸子は手のひらがにちゃつくような屈辱をともなう切なさだった。保がああして死んで、伸子は何が多計代にうちあけられたろう。伸子には保の死について多計代の責任を感じる和解しがたい思いがある。それは、保が亡くなってからの伸子の生きてゆく意識に作用している。伸子は保であるまいとしているのだった。人生に対して。母というものに対して。どうして、それやこれやのことが、手紙のようなものに書けよう。議論される余地のあることではなかったのだから。伸子にとってそれは自分の生そのものなのだから……
思い沈んでだまっていた伸子に、藤原威夫は、彼もその間に彼自身の考えの筋を辿っていたらしく、しかしなんですな、と云った。あなたのお母さんはさすが井村先生の令嬢だけあって、皇室に対しては今どきめずらしい純粋な気持をもっておられるですね。お話をうかがって敬服しました。
藤原威夫のその軍人らしい賞讚の言葉を、伸子はぼんやりと実感なくきいていた。母が、皇室に対して純粋な気持をもっている――それは何だかまるで生活からはなれていて伸子の感情にない問題だった。自分の感情の中に合わせるピントがないという意味で、伸子は母と藤原威夫という軍人とはっきり別な自分を感じるのだった。藤原威夫は、帰りしなに、笑って次のように云った。実はお母さんから、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たらぜひちょいちょいあなたをお訪ねするように御依頼をうけたんですが、どうもこう忙しくては折角おひきうけして来たものの実行不可能ですな。
腎臓病で入院している同じ病棟の掃除婦に、伸子が、お前さんにゃてんで心配の種ってものがないんじゃないか、と云われて、それを自分からもうけがったのは、二三日前のことだった。屈托なく心をひろげて一つの病棟のなかに様々のニュアンスで展開されてゆくソヴェト・ロシアの生活の朝から夜の動きに身をまかせていた伸子は、不意に現れた一人の軍人によって、その居心地のよかった場所から熊手で丸ごとかきおこされた。伸子は、藤原威夫が軍人らしい歩調で出て行ったあとの病室のベッドの上で、自分のまわりにかけられた堅くて曲げようのない金熊手の歯を感じた。ほんとのところ、伸子には藤原威夫の話したことがよくわからなかった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来る前の伸子が考えたこともなかったし、またモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で伸子が考える必要を感じもしなかったこと、たとえば天皇のことなどを、藤原威夫は主にして話して行ったがそれは伸子に何と無関係のように感じられ、その一方で何と薄気味わるい後味をのこしたろう。
三・一五事件からあとの本国の空気を知らない伸子には、藤原威夫の出現も天皇論も多計代が彼のところへかけつけたということも、すべて普通でなくうけとれた。そしてその普通でない何かは、去年のメーデーの前、父の泰造が三・一五事件の新聞記事に赤インクでカギをつけてよこした、あのあくどい赤インクのカギが自分の動きに向って暗黙にかけられたように感じた、そのときの漠然とした感じより、はるかに内容をもっており、また意志的だった。藤原の来たのも話したのも個人としてのわけだのに伸子の心にのこされた後味には何をどうしようというのか伸子にわからないが、ともかく権力の感じが濃かった。そして、そのような権力を身のまわりに感じることは伸子を居心地わるくさせる一方だった。
その午後おそく素子が病室へ来たとき、伸子は待ちかねていたように、
「あなた藤原威夫って少佐に会った?」
ときいた。
「さっきここへ来たわよ」
「きみのおっかさんからたのまれたってんだろう?」
素子は皮肉な眼つきで浮かない伸子の顔つきを見ながら鞄からタバコを出
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