ニめぐり合うことのない訪問者の一人として、やっぱりそれも或る午後、伸子の病室へ一人のひどく気のたった女が入って来た。
 病院で患者に着せる白ネルの病衣の上から茶がかった自分の外套をはおったもう若くない女は、両肩の上に黄色っぽい髪をふりみだし、ちょうどおきあがっていた伸子をドアのところに立ってにらむように見つめた。
「お前さんかね――日本の女のひとっていうのは?」
 いきなりのことで伸子は返答につまった。しかしここで日本の女と言えば自分よりほかの誰でもないわけだった。伸子は、
「何か用ですか」
ときいた。
「入ってもかまわないかね」
「どうぞ」
 伸子は、長椅子の方をさして、
「かけて下さい」
と云った。
「寒くないかしら。――ここの窓はガラスがこわれているんだけれど」
「なに、かまわないさ」
 その女は、ひどく亢奮している様子でそんなことは面倒くさそうにせかせかと云った。
「わたしはね、ちょいとお前さんに会って話したいと思って来たのさ」
 抗議することのある調子だった。伸子は何だろうと思った。人の気をわるくする機会があるほど伸子はまだ動けないでいるのだから。見当のつかないまま伸子は、
「スカジーチェ(おきかせなさい)」
と云って、両方の手を、半身おきあがっているかけものの上においた。
「わたしは、腎臓がわるくて、体じゅうはれたんでこの病院に入って来たのさ。できるだけ早くよくしてもらって、すぐかえるためにね。それが二週間よりもっと前のことさ。ところがもうこの一週間はわたしの体からはれがひいて、すっかりなおっているのに、ドクターは、まだ癒っていないって云うのさ。――え? 誰が知っちゃいるもんか! わたし[#「わたし」に傍点]は癒ったっていうのに、医者は癒っていないっていう。あけてもくれても一つことだ」
 女はおこった大きな声でしゃべった。大病室の方はしずかだった。廊下越しに、彼女の病床がそっちにある大病室の仲間たちにも、伸子の室で自分が云っていることをきかせようとしているようだった。伸子は荒々しい生活の中に年を重ねて来たらしいその女の上気して毛穴のひらいた顔を見つめた。亢奮しているばかりでなく熱が出ているらしい眼のうるみ工合だった。伸子は、また、
「寒くないのかしら」
と気にした。
「ニーチェヴォ」
 そんなことではぐらかされるものかという風に伸子の注意をしりぞけて、女は一層声高につづけた。
「わたしが早くかえらしてくれっていうと、ここのドクターと看護婦はいつだって、お前さんのことを引合いに出すんだ。あの日本の女のひとを見ろって、さ! 若くって、遠いところから来て一人ぼっちでねていて、友達が来るだけなのに、もう二ヵ月近く、いっぺんだって苦情を云ったことがないって。食べものについても、治療についても辛抱づよいって。わたしもお前さんに見習えっていうのさ!――ばかばかしい※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 女は憤懣にたえないらしく、はげしい身ぶりで片手をふった。
「わたしとお前さんとはまるきしちがうじゃないか。こう見たところお前さんはまだ若い――」
 首をのばして伸子の顔を改めて見直して、
「まるでまだ娘っこみたいなもんじゃないか!」
 伸子は、思わず笑った。
「ところが、わたしはどうだね。わたしはもう四十四だよ。うちには、去年生れの赤坊を入れて五人子供がいるんだ。わたしは、あいつらに食べさせ、着させ、体を洗ってやって、その上勤めているんだ――わたしは掃除婦だからね。それに亭主だって――亭主だって見てやるもんがなけりゃ、どうして満足に働きに出られるかね。――わたしは、お前さんとはまるきりちがうんだ。わかるだろう?――どうして、わたしがお前さんと同じように辛抱づよくなれるかってんだ――世帯も持ってなけりゃ、亭主もなけりゃ、乳呑子《ちのみご》だってないお前さんのようにさ。――お前さんにゃてんで心配の種ってものがないんじゃないか」
 粗野な女の言葉のなかに真実があった。伸子には心配の種がないんだ。ソヴェトの働く女というより古い、ロシアの下層の女のままな彼女の暗い不安な、人を信用しない感情には、医者のいうことも疑わしければ、苦労のなさそうな日本の女を手本にひっぱり出されることにも辛抱がならないらしかった。暗くせつなくとりつめて、髪を乱し、伸子にくってかかっている女に、伸子は自分が予期しなかったおちつきで、
「あなたがわたしのところへ来たのは、よかったですよ」
と云った。
「あなたは、本当のことを云いましたよ。たしかにあなたの条件とわたしの条件とはまったくちがうんです。――わたしはひとりもん[#「ひとりもん」に傍点]だから」
 つい体に力がはいって、重苦しくなった右脇に手をあてて圧しながら、伸子は説明した。
「しかし、お医者があなたに云ったこと
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