B中国人は僕よく知ってるんです、『子供の家』に中国人の子供がいたから。僕日本人にあったのはじめてです」
 自分の名をペーチャと云って紹介したピオニェールは、やがて開幕を告げるベルが場内に鳴ると、
「僕、こっちの席へうつってもいいですか」
と素子にきいた。
「幕間に、もっと日本のことがききたいから」
 その晩のエクスペリメンターリヌイ劇場は八分の入りだった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の劇場ではそこがあいていることがたしかなら、席をかえてもかまわない習慣がある。――もっとも、そんな空席のあることはまれだったけれども。
 ピオニェールはそのままバルコニーにのこって、赤ブラウスの女の一つうしろの席に坐った。素子と伸子との座席は丁度第一列の中央通路から一つめと二つめだった。素子の右手はゆったりした幅の通路で区ぎられており、その隣りにいるのは伸子で、あとずっとその列に空席がなかった。
 オペラとバレエだけを上演する国立大劇場とくらべれば、エクスペリメンターリヌイ劇場は、上演目録も『ラ・ボエーム』『ファウスト』『トラヴィアタ』という風なもので若い歌手たちの登場場面とされていた。すべてが小規模で、舞台装置もあっさりしているけれども、その晩の『椿姫』は魅力的であった。ソプラノが、いかにも軟かく若々しい潤いにとんだ声で、トラヴィアタの古風で可憐な女の歓び、歎き、絶望が、堂々としたプリマドンナにはない生々しさで演じられた。歌詞がロシア語で歌われるために、流麗なメロディーにいくらかロシア風のニュアンスがかげを添え、その晩の『椿姫』は、プーシュキンでもかいた物語をきくような親しみぶかさだった。伸子は、体のなかで美しく演奏されたオペラのメロディーが鳴っているような暖くとけた心持で劇場を出た。パッサージ・ホテルまで歩いて、そこで素子とお茶でものんで、伸子はそれから電車でアストージェンカの住居へ帰るのだった。
 雪のこやみになっている夜道を中央郵便局の建築場に面したパッサージの入口まで来た。伸子たちは二人きりでそこまで来たのではなかった。例のピオニェールが送ってゆくと云って、ついて来ていた。
 パッサージの入口で、素子が糸目のすりきれた黒ラシャの短外套の襟の間から赤いネクタイをのぞかせているピオニェールにわかれを告げた。
「じゃ、さようなら、家へかえって、寝なさい。もうおそいよ」
 ピオニェールは、ちょっと躊躇していたが、
「あなたの室へよって行っていいですか」
 いくらか哀願するように云った。
「ほんの暫くの間。――じきかえります」
 伸子も素子も、子供が茶をのみたがっているのだと想像した。
「ピオニェールが、そんなに夜更していいのかい」
 そう云いながら結局三人で素子の室へあがった。そのとき素子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へついた一番はじめの晩に伸子と泊った室、あとでは長原吉之助がオムレツばかりたべながら二週間の余り逗留していた三階の隅の小さい部屋をとっているのだった。
 素子の室へはいって外套をぬぎ、もちものをデスクの上や椅子の上においてひと休みするとピオニェールはめっきり陽気になりだした。小さい焔がゆれているような顔をしてトラヴィアタの中にあるメロディーを口笛で吹き、そうかと思うと、ブジョンヌイの歌を鼻うたでうたって、部屋じゅう歩きまわったあげく膝をまげた脚をピンピン左右かわりばんこに蹴出すコーカサス踊の真似などをした。
「なぜ、お前さんはそう騒々しいのかい」
と、素子があきれた顔でとがめた。
「おかしな小僧だ!」
 ピオニェールはすかさず、
「僕、いつだって陽気なんだ。ラーゲリ(野営地)で有名なんです」
と口答えして笑ったが、敏感に限度を察して、それきりさわぐのをやめた。そしてこんどは当てっこ遊びをはじめた。
「この机の引出しに何が入ってるか、僕あててみましょうか」
「あたるものか」
「いいや僕あててみせます――先《ま》ず――何だろう」
 緑色のラシャの張ってあるデスクを上から撫でて、金色の髪がキラキラ光る五分刈の頭をかしげ、
「まず、紙類が入っている!」
「お前さんはずるいよ。紙類の入っていない机の引出しなんてあるものか」
「それから、たしかに鉛筆も入っている。ナイフ――あるかな?」
 ピオニェールは、挑むような、からかうような眼つきをして素子と伸子を、順ぐりに横目で見た。
「少くとも、何か金属のものが入っています!」
 そう宣言しながらさっと素子のデスクの引出しをあけた。その引出しに、白い大判のノート紙と日本の原稿紙などしか入っていないのを見てピオニェールは、失望の表情をした。
「大したもんじゃないや!(ニェ・ワージヌイ!)」
「あたり前さ、もちろん大したもんじゃないよ、紙は紙さ。白かろうと青かろうと」
 
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