てがって、あすこも見える! こっちも見える! とはしゃぐ有頂天ぶりは何か度はずれだった。伸子は、
「ほんとにそんなによく見えるの?」
 そのピオニェールにきいた。
「そのグラスはもう古くて、よくない機械でわたしたちには舞台を見るにも不便なのに」
 オペラ・グラスは、伸子の母親が誰からか外国土産にもらって長い間つかい古したものだった。小さいねじ[#「ねじ」に傍点]で、レンズが倒れて、オペラ・グラス全体が薄くたたまれる。それが手ごろで、伸子はもらって来たのだった。
 伸子がそういうと、ピオニェールはレンズを目からはなして、瞬間かたまったような笑い顔で伸子をじっと見た。
「それ、ほんとですか」
 伸子は半分ふざけて云った。
「レンズだの自動車だのは、一年ごとに進歩して、よりよいものが作られているのよ」
 ピオニェールは、口のなかで、
「そりゃ本当だ」
と言いながらまたレンズを目に当ててバルコニーのうしろの方を眺めていたが、素子に、
「僕このレンズちょっとかりて下へもって行っていいですか。僕の席、あすこなんです」
 バルコニーの手摺りから、下のオーケストラ・ボックスの右よりの場所を示した。
「僕、下から上が見てみたいんだ。いいですか。すぐもって来ます」
 素子は、ちらりと伸子を見た。
「――いいだろう」
 その言葉の響には、少年を信用してもいいだろうという意味がききとれた。伸子は、だまって、口元でわからないという表情をした。その少年のピオニェールの服装が、どこやら信用しない自分のきもちの方が普通でないようにも伸子に感じさせるのだった。
「まあいい――」
 素子はロシア語で、
「かしてあげるよ。すぐもって来なさい」
と云った。少年はバルコニーから姿を消した。オーケストラ・ボックスに近い下の席にまた彼のピオニェール姿が現れるまでに、すこし時間がかかりすぎる感じだった。素子と並んで首をのばして下を見ながら、伸子は、
「あの子供、返しに来るかしら」
と云った。来ないような気がした。
「ピオニェールだよ」
「そりゃそうだけれど……」
 そう云ってなお下を見ている伸子の頭に、札束のことが思い浮んだ。
「あなた、お金どこにある?」
「こっちへうつした」
 伸子と自分との席の間に挾んでおいてある書類鞄を素子はたたいた。劇場へ来るまえに、伸子と素子とは国立銀行へまわって、三ヵ月間の生活費にあたるほどの紙幣をもっていた。素子はどうしたのかそれを外套の内ポケットに入れていた。劇場の外套あずかり所で、外套をぬいであずけるとき、素子はそのことを思い出し、ポケットから札束を出して、入れ場所をかえた。伸子は、素子のそういう動作は場所柄不用心だと思ったけれども、だまっていた。そのとき、彼女たちのまわりに何人か外套あずけの観客がいた。素子がそうやって手早くではあったが不適当な場所で札を動かしたとき、すぐ横にいて、どうも素子のやったことに気づいたらしい、きびしい顔つきの四十がらみの女が、赤っぽい絹ブラウスを着て、やっぱり同じバルコニーで素子から斜よこの席に一人でかけていた。
 伸子は、あいかわらず素子と顔を並べて下を見ながら、小さな声で、
「お金、みられたんじゃないかしら」
と云った。
「あの女、気がついてる? 赤ブラウスの女、外套あずけのところで、すぐあなたのうしろにいたのよ」
「ああ、あいつはすこし変だ」
 オペラ・グラスそのものは、伸子たちにとって、なくなって大して惜しいものでもなかったし、不便する品ものでもなかった。けれども、あの子供は、ほんとにただオペラ・グラスが珍しいだけなのか。それとも盗むのだろうか。伸子たちの好奇心はそちらに重点がうつった。
 すこし時間をかけすぎた感じだったが、やがてそのピオニェールは伸子たちが見下しているオーケストラ・ボックスの近くの席へ、赤いネクタイ姿をあらわした。幕のしまっている舞台をうしろにして席のところに立ち、伸子たちのいるバルコニーへオペラ・グラスを向け、挨拶に手をふった。幕間にも席を立たずにいたまばらな観客の顔が二つ三つ、ふりかえって、ピオニェールがそこに向って手をふっている伸子たちのバルコニーを見上げた。少年の隣りの席にいた黒っぽい背びろ服の男が、少年からオペラ・グラスをかりて首をねじり、特に伸子たちの方というのではなくバルコニー全体を眺めた。そして、かえしたオペラ・グラスで又ひとしきりあっちこっち見まわしてから、少年は、いまそっちへゆくという意味の合図をして、見えなくなった。
 ピオニェールは、オペラ・グラスをかえしに来た。素子は少し伸子をとがめるように「やっぱり来たじゃないか」とささやいた。そして素子と少年との間に、断片的な日本の話がはじまった。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に日本人すくないですね
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