Bだって、ツァイスのレンズって云えば、世界一でしょう? それは科学性でしょう? それなのに、『サラマンドル』であんなセンチメンタルな波なんかおくめんなく出してさ。――ドイツの文化って、一方でひどく科学的で理づめみたいなのに、ひどく官能的だし、暗いし――わからないわ」
「――ツァイスのレンズだけあってもいい映画にならないところに、われわれの生き甲斐があるわけでしょう」
 歌舞伎がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たにつれて、一座の俳優の或るひとたちや中館公一郎のような映画監督がそれぞれに芸術の上に新しい意欲を燃やし、どこかへ展開しようとして身じろいでいる。その雰囲気は、はじめ歌舞伎がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来て公演するときいたころの伸子たちには、予想もされなかった若々しく激しいものだった。
 ソヴェトの見物人たちは、歌舞伎の舞台衣裳の華やかで立派なことを無邪気に驚歎し、ごくわずかの体の動きで表現される俳優の表情や科白《せりふ》の節まわしに歌舞伎の独特性を認め、好意にみちていた。それにこたえて、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]一週間の公演を熱演しながら、長原吉之助と数人の若手俳優たちは、舞台におとらぬ熱心さでベルリン行の手順をすすめていた。歌舞伎の一行には、興行会社である松竹の専務級の人もついて来ていた。ベルリンへ行きたい俳優たちはその計画を左団次に承知してもらうばかりでなく、会社の人たちの承諾も得なければならず、それには、正月興行に必ず間に合うように帰ることを条件として申出ることそのほか、伸子たちには想像できないこまかい順序といきさつがあるらしかった。そして、そういう順序のはこびかたそのものに、また歌舞伎の世界のしきたりがあるらしくて、率直な吉之助でさえも、伸子たちが、そのことについてせっかちに、
「どうです、うまく行きそうですか」
ときくと、
「ええ、まあ」
と笑いまぎらすことが多かった。
「左団次さんは自分も若いときイギリスへ行ったりなんかしているから、自然話もわかるんですがねえ」
 それでも吉之助たちのベルリン行の計画は歌舞伎がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]での公演を終る前後には実現の可能が見えて来た。
「見てきます」
 吉之助は俳優らしさと学生らしさのまじりあったような若い顔を紅潮させた。
「そしてまたかえりにここへちょいとよります、こっちはないしょですが……」
と健康そうな白い歯を見せて笑った。ソヴェトへ来て、自分というものは一つところに置いたまま、見聞ばかりをかき集めてもって帰ろうとするような人たちとちがって、吉之助や中館公一郎の態度は、伸子に共感を与えた。吉之助がふるい歌舞伎の世界のどこかをくいやぶって、自分を溢れ出させずにはいられなくなっている情熱。中館公一郎が映画監督として、自分の持てる条件を最大限まで押しひろげて見ようとしている目のくばり。そんな気持はどれもはげしく明日に向って動いている心であり計画であった。明日《あした》は、明日《あした》に杙《くい》をうちこんで前進してゆこうとしているこれらの人たちの生活気分は、保が死んでからソヴェト社会へつきささった小さいくさびのように自分を感じている伸子の感情にじかにふれた。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来た歌舞伎は、そのふるい伝統の底から思いがけない新しいもの、種子を、そうとは知らず後にのこして、好評をみやげに日本へひきあげた。吉之助とあと三四人の若手俳優が、すぐベルリンへ立ち、中館公一郎も別に一人でハンブルグ行きの汽船にのった。

        三

 歌舞伎がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で公演していたとき、左団次の楽屋で、伸子と素子とはさくら[#「さくら」に傍点]と光子という二人の日本語を話すロシアの若い女に紹介された。二人とも東洋語学校を出ていて、日本名をもち、さくら[#「さくら」に傍点]はたまに短歌をつくったりした。色のわるい面長な顔に黒い美しい眼と髪をもっている文学的なさくら[#「さくら」に傍点]とちがって、光子はがっしりとしたいつも昼間のような娘で、脚がわるく、ステッキをついて伸子たちのホテルの室へ遊びに来た。またそのステッキをついて毎日どこかの役所につとめてもいるのだった。
 さくら[#「さくら」に傍点]や光子が、それとなしベルリンから吉之助が帰って来るのを待っているきもちが伸子によくわかった。吉之助には、歌舞伎俳優の型にはまっていない人柄の生々した力があって、それが外国人であるさくら[#「さくら」に傍点]や光子を魅していた。伸子が吉之助に快く感じるのも同じ点からであった。若い男に対して、いつもうわて[#「うわて」に傍点]の態度で辛辣な素子が、
「吉之助、
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