ワっているのだったが、そのわけも、間に三月の保のことがあったとわかれば、おのずからまた別の角度で伸子に思いあたるふしもある。父の手紙によれば、三月の夜のガスのことは、家族のあらゆる人から完全に秘密にされていた。知っているのは保と父と母のみである、とかかれていた。多計代は、この秘密を伸子にたいして絶対に守ろうとしたにちがいなかった。多計代にとっては神聖この上ない保の秘密を、破壊的だと思われている伸子、物質的だと考える伸子には決してふれさせまいときめたのだろう。そのために一層手紙もかかなくなったと思える。
 伸子は、もっとつよくも想像した。多計代はもしかしたら、三月の夜保のしたことに、姉の伸子の冷酷な手紙[#「冷酷な手紙」に傍点]が原因しているとさえ思っているかもしれなかった。保は、そんな風にはうけていなかった。雪のつもった大使館の外庭の菩提樹の下でよんだ保からのハガキを伸子はまざまざと思い浮べることができた。姉さんが遠い外国に生活しているのに、こんなに僕のことを考えていてくれたのに僕はびっくりした。そこには、保の柔かな心情が溢れていた。保が高校入学祝にこしらえて貰ったという温室の一つで、金がなくって困っている高校生の一年分の月謝が出たかもしれないと伸子が言ってやったことについて、保は率直に、僕はまるでそんな風には考えてみなかったといってよこした。僕はそれをたいへん恥しいことだと思う。その一句のよこには特別な線がひいてあった。あのハガキをよんだとき、伸子はそういう保の心をどんなに近く自分の胸に抱きしめただろう。かわゆい保。――新しい悲しさで茶のコップをとりあげた伸子の喉がつまった。
 そのとき、テーブルの向い側からエレーナ・ニコライエヴナが、さっきからの話のつづきで、変に上気した顔つきをしながら伸子に向って、
「あなたは小説をおかきになるんですってね。婦人の作家としてトルストイのこの問題をどうお考えです?」
と話しかけた。伸子はエレーナ・ニコライエヴナの人がらにも話ぶりにも、どちらにも好感がもてなかった。エレーナ・ニコライエヴナは食卓の礼儀とすれすれなところで、赧ら顔の頬から顎にかけて剃りあとの濃い、口元にしまりなくて羽ぶりのいい技師とトルストイをたねにいちゃついているだけのことだった。伸子は、ロシア語のよく話せないのを幸い、喉にこみあげている悲しみのかたまりをやっとのみこんで、
「リザ・フョードロヴナが、正確にお答えになったと思います」
と短く返事した。

 伸子が夜となく昼となく自分の悲しみをかみくだき、水気の多い歎きの底から次第に渋い永続的な苦しさをかみだしている間に、パンシオン・ソモロフの朝夕はエレーナ・ニコライエヴナが来てから変りはじめた奇妙な調子で進行していた。
 食卓でトルストイの家出の話が、何かひっかかる言葉の綾をひそめて話題になってから程ない或る午後のことだった。ヴェルデル博士、伸子、素子の三人で、二マイルばかりはなれた野原の中にたっている古い教会の壁画を見に行った。附近の村からはなれて、灌木のしげみにかこまれた小さい空地にある淋しい廃寺で、ビザンチン風のモザイクの壁画が有名だった。そこを出てぶらぶら来たら、思いがけず正面の茂みの間をエレーナ・ニコライエヴナと技師とがつれ立って歩いているのにぶつかった。双方ともにかわしようのない一本の道の上にヴェルデル博士と伸子たちとを見て、エレーナと技師は組んでいた互の腕をはなしたところらしかった。そのままの距離で二人は二三歩あるいて来ると、派手な水色で胸あきのひろい服をつけたエレーナ・ニコライエヴナがわざとらしくはしゃいだ調子で、
「まあ思いがけないですこと!」
と、明らかにヴェルデル博士だけを眼中において近づいて来た。
「お邪魔いたしましたわね」
 ヴェルデル博士は、黒いソフトのふちへちょっと手をふれて、技師へ目礼し、いつものおだやかで真面目な口調に苦笑しながら云った。
「誰が誰の邪魔をしたのか、私にはわかりかねますな」
 伸子たち三人はそのまま帰り道へ出てしまった。その間技師は少し顔をあからめたまま、ひとことも口をきかなかった。
「男の方があわてたのさ。エレーナなんか、どうせ出張さきのひと稼ぎの気でいやがるんだ」
 二人きりになると、素子は憤慨して云った。
「あんまり人を馬鹿にしているじゃないか、あんな感じのいいちゃんとした細君をわきへおいときながら、その鼻っさきで――甘助技師奴」
 夜のお茶にパンシオン・ソモロフの人々がみんなテーブルについたとき、素子がとなりのリザ・フョードロヴナに、誰でもする会話の調子で、
「きょう散歩なさいましたか」
ときいた。
「いいえ」
 暗色のロシア風な顔の上ですこし眉をあげるようにして、リザ・フョードロヴナは若くない女のふっくりした声で答え
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