フ白い書簡箋を素子にわたして、伸子は両手で顔をおおった。

        五

 伸子は、思いにとらわれた心でパンシオン・ソモロフの食卓につらなっていた。妙に長くて人目立つ鼻にお白粉を塗って、白ヴォイルのブラウスの胸に造花の飾りをつけたエレーナ・ニコライエヴナが、小さくて黒く光る眼をせわしく動かしながら耳だつ声でトルストイが最後に家出した気持は理解できるとか出来ないとか盛に喋っている。あの雨の日のヴェランダで伸子の手をつかんで蝙蝠の羽ばたきのようにマズルカをおどった老嬢エレーナは、彼女の休暇を終って美術館の仕事に戻って行った。新しく来たエレーナ・ニコライエヴナは、レーニングラードのどこかの映画館でプログラム売りをしていた。三十三四になっている彼女は、自分からそのいかがわしい職業を披露した。彼女の出生がいいためにソヴェト社会ではそんな半端な職業しか許されない、と軽蔑をこめた註釈を添えて。
 香水をにおわせているエレーナ・ニコライエヴナとトルストイ論の相手をしているのはリザ・フョードロヴナの良人《おっと》の技師であった。すぐ隣りの席で、だまったまま薄笑いしている歴史教授リジンスキーをとばして、鼻眼鏡をかけて髭のそりあとの青い顔をテーブルの上へつき出しながら技師はエレーナ・ニコライエヴナに言っている。
「トルストイが家庭に対してもっていたこころもちは私にはわかりますね。――理解のふかいあなたに、彼の心がわからないというわけはないと思います」
「まあ」
 エレーナ・ニコライエヴナは、自然にうけとれない亢奮をかくした笑顔で、
「でもそれは良人として、父親として家庭への義務を忘れたことですわ。ねえ、リザ・フョードロヴナ」
と、いきなりテーブル越しに、伸子のわきにいる技師の細君に話しかけた。
「――トルストイの場合として、わたしは理解されると思いますよ」
 リザ・フョードロヴナはおだやかにフォークを動かしながらいつものしっとりとした声で、エレーナ・ニコライエヴナを見ないで答えている。そこには何か感じられる雰囲気があるのであった。
 伸子は、その雰囲気を感じながら同時に自分自身の思いに沈んだ。保の死んだ前後のいきさつをこまかく書いた泰造からの手紙をよんでから、伸子にはあのことも、このこともと思いあたることばかりだった。
 駒沢の家をたたんで、荷物を動坂へはこびこんだとき、伸子は本の入った一つの行李だけ別にして保に保管をたのんだ。その行李の中には、もしかしたらモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へおくってほしくなるかもしれないと思う本ばかりをひとまとめにしてあった。伸子がそのことをたのんだとき、保はなぜか、すぐああいい、と言わなかった。ちょっとの間だまっていた。それをけげんに感じた伸子が重ねて、ね、たのむわ、いいでしょう、と念をおしたとき保は、ともかくわかるようにしておく、と言った。
「僕がいなくてもちゃんとわかるようにしておくから姉さん安心していい」
 保のその言葉は、ひと息に云われて、何ということなく伸子の印象にのこった。今になって思いおこすと、保の心にはもうそのとき、自分がいつまでも生きているとは思えない計画が浮んでいたのだったろう。伸子が動坂の家へ荷物を運びこんだのは十月のはじめだった。二ヵ月前新聞に出た相川良之介の遺書は、保に長い計画的な死の準備を暗示しなかったとは、伸子に考えられなくなった。相川良之介の遺書には、三年来、死ぬことばかり考え、そのために研究して来た、とかかれていた。保は三月下旬に、第一回を試みて、失敗した。十月ごろからほぼ半年たっている。八月一日といえばその三月からまた半年ちかい時間があった。その間に、保は、大学へ入るときどの科を選ぼうかと伸子に手紙をよこし、六月にはあんなに元気そうに、今年の夏休みは大いに自転車ものりまわし愉快にやってみるつもりです、といってよこした。伸子は、自分がどんなに単純にそのハガキをよんで安心していたかということが今やっとわかるようだった。愉快にやってみるつもりです、という表現に気をつけてよめば、それは、きわめて陰翳にとんでいるわけだった。愉快にやってみるつもり、という言葉のかげには、愉快になれない現在を一飛躍して見よう、という努力の意味がこもっている。しかも、愉快にやってみるつもり[#「つもり」に傍点]だが、それがうまく行かなければ、と、保の内心には、執拗な死の観念と生への誘いのかね合いが感じられていたのだったろう。伸子は、そんなことすべてに気がつかなかった。気がつかなかったということから、伸子は保に対する自分の情のうすさを責められた。
 一月に、温室について保へ書いた伸子の手紙に対して多計代が怒り、伸子をののしった手紙をよこした。それぎり多計代と伸子との間に直接のたよりは絶えてし
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