曹フ人たちとわたしの国の人たちと、どっちが苦しい生活をしているんでしょうねえ。哀愁をこめたリン博士のその言葉は伸子の耳の底にのこっている。伸子は、そういうリン博士の言葉で、自分という者の運命が日本の見知らぬ数千万の人々の運命とかたく結ばれたその一部であることを知らされたのだった。けれども、伸子がリン博士に感じた尊敬や真摯さは、伸子が伸子でないものになりたいような刺戟を与えるものではなかった。リン博士のゆたかさ、伸子の貧弱さ、その間には非常に大きな差があった。けれども、その厳粛な差のなかにリン博士の本質は伸子の本質と通じるものであることが感じられた。
 アンナ・シーモヴァに伸子のひかれているこころもちは、惹きつけられる感情そのものが、もう伸子を伸子のそとへ押しだすものだった。リン博士と伸子との間に流れかよった共感というのとはちがった。アンナ・シーモヴァって何といいのだろう。そう思うとき伸子は、自分という意識から解き放されて、アンナ・シーモヴァという一人の女性に表現されているこのましい生活ぶりへの想像に惹きこまれるのだった。
 六月も終ろうとする晩で、伸子がよりかかっている窓のあたりは、人気ない河岸どおりをへだてて、ふんだんなネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の夜の水の匂いがして来るようだった。
「あなた不思議だと思わない?」
 くつろいでいる全身に、金ぶち飾りのついた天井からの隈ないシャンデリアの光を浴びながら伸子がまたつづけた。
「アンナ・シーモヴァとゴーリキイと、どこか共通な感じがあるのに気がついた?」
「――そうかなあ」
 ベッドよりに置かれているテーブルのはじに左肱をかけて、タバコのついていないパイプを指の間でいじりながら、素子がのみこめなさそうな眼ばたきをした。
「そう云えば、あのひとたちは、どっちも働く人の中から出ているんだから、そういう意味では共通な感じがあるかもしれない」
「そればかりじゃなく――革命を経験した人たちだというだけでもなく。――ゴーリキイはあんなに人間で、まるで人生そのものみたいに見事で、それで日向《ひなた》の年とった糸杉の匂いのようなまじりけない男が感じられたでしょう。アンナ・シーモヴァに、似たものが感じられるわ。あのひとの人間らしさに、くっきりと女がはめこまれているわ」
「…………」
 素子はだまってじっと伸子を見つめた。そして、無意識な手つきでからのパイプを口に咥《くわ》えた。伸子は、窓の前をゆっくり行ったり来たりしはじめた。窓からは、広く暗いネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の面を越して対岸の街燈が淋しくまばらに見えている。
「立派な、人間らしい人たちの中に、それぞれの完全な性があるのは美しいことだわねえ」
 素子の方へ背をむけて歩いていた伸子は、あこがれに小波だっているような調子でそう云ったとき、きいている素子がさっと上気したのを知らなかった。
「わたしも、ああいう風に咲き揃ってみたいと思うわ。――あの人たちのように……何て人間らしいんでしょう。咲きそろうって……」
 でも、と伸子はすぐつづけて考えた。自分には、自分を咲き揃わせるどんな方法が現実にあるだろう。誰の真似でもなく、間に合わせでもなく、この自分が咲き揃うために。――ゴーリキイやアンナ・シーモヴァが生きて来て、自身を咲き揃わせた道は、それが心を魅する内容をもっていればいるほどその人たち固有のもので、伸子にそのままくりかえせるものでも、真似するすき間のあるものでもなかった。いつかまた窓ぎわに戻って、目に映るものをほんとには見ていない視線を、明るく照し出されている素子の顔の上におきながら、伸子は思いつづけた。人間の善意は大きく真面目で、その中で一人一人が自分の正直な意志や希望を生かしてゆくためには、何ときびしいその人ひとの道があるだろう。その道の前途は、伸子にとって空白だった。そのことが伸子に明白に意識されるばかりだった。伸子が口を開こうとした瞬間、
「ぶこ!」
 低い迫るような素子の声が先をこした。
「なに考えてる――」
 複雑なこころもちを云おうとしていたその出鼻をくじかれて、伸子は言葉につまった。
「――当てて見ようか」
 素子のなめらかな小麦肌色の片頬に、不自然な片頬笑みがあらわれた。
「いままでぶこが考えなかったことを考えてる――ちがうかい?」
 亢奮を強いて抑えているような素子の声音や凝視が、伸子を警戒させた。
「そうかしら……でも、どうして?」
「はぐらかさなくたっていいだろう」
 そう云いながら、素子は椅子のなかで膝を組み重ねている体の重心をぐっと落すようにした。
「率直に云ったらどんなもんだい。いつだってぶこは正々堂々がすきなはずだったじゃないか」
 まごつきをあらわしている伸子の顔を素子はくらいつくよう
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