セるさは、ゴーリキイの薄灰色のやわらかな服の肩にも膝にも落ちて、それは絨毯の上で伸子たちの靴のつまさきを光らせている。
自分が話そうとするよりもゴーリキイの真率でとりつくろったところのない全体の様子を伸子は、吸いとるように眺めた。ゴーリキイには、有名な人間が自分の有名さですれているようなうわ光りが微塵《みじん》もなかった。ゴーリキイの全体は艷消しで、年をとったことで一層人間に大切なものは何かということしか気をとめなくなった人の、しんからの人間らしさ、その意味での気もちよい男らしさがあった。いろいろなことをつよく感じとりながら、ゴーリキイの精神には誇張がなかった。あぶなっかしい伸子のロシア語を、ゴーリキイは骨骼の大きい上体を椅子の上にこごみかげんにして、左膝へつっぱった肱を張りながらきき、あり得ることだと云って肯くようなとき、ゴーリキイの簡素さと誠実は伸子に限りないよろこびと激励を与えた。
そろそろ暇《いとま》をつげかけたとき伸子がゴーリキイに云われて贈呈した小説の本の扉へ、ロシア語で署名した。書きにくい字が、改まったらなお下手にかけた。伸子はそれをきまりわるがったが、ゴーリキイは、ほんとにそんなことは問題にしないで、ゆっくり、
「ニーチェヴォ」
と云いながら、窓の方へ体をよじるようにして伸子の書いた字の濡れているインクの上を吹いた。それは自然で、伸子の心をぎゅーっとつかむような自然さだった。ゴーリキイに会っていると、伸子のよんだ作品の世界のすべてが、人間の多様さと真実性をもって確認される感じだった。
ゴーリキイの室を出て、自分たちの部屋へと廊下を歩いて来ながら、伸子はうれしさから段々しんみりと沈んだ心持に移って行った。ゴーリキイの深い味わいのある艷消しの人間性にこのましさを感じたとき、伸子は反射的に、父の泰造にある艷を思った。泰造のもっている艷の世俗性が伸子にまざまざとした。そしてそこに赤インクのかぎが見えた。伸子はまばたきをとめて父の艷と赤インクのかぎとを見つめるような心持になった。
一人の芸術家が、個性的だというような表現で概括されるうちは、そのひとの線はほそく、未発展のものだということも、ゴーリキイを見ると伸子に感じられた。
それから五、六日後、伸子と素子とはヨーロッパ・ホテルから冬宮わきにある学者の家へ移った。レーニングラード対外文化連絡協会の紹介と、メーデイのすぐあと日本へかえった秋山宇一を送ってからレーニングラードへ来ている内海厚の斡旋であった。
そこはネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河の河岸で、窓ぎわにたつと目の下に黒く迅いネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の流れがあった。遠く対岸にペテロパウロフスク要塞の金の尖塔が見えている。伸子と素子とが並んで、ネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の流れの落日を眺めたりする窓は、二人の立姿が小さく見えるぐらい高く大きかった。白夜の最中で、毎日午後十二時をすぎての日没だった。伸子と素子が日本の女の肌理《きめ》のこまかい二つの顔を真正面から西日に照らされながら見ている前で、太陽は赤い大きな火の玉のようにくるめきながら、対岸に真黒く見えている三本の大煙突の間に沈みかかっていた。ネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の流れが先ず暗くなって鋼《はがね》色に変った。しかし、まだ伸子たちの顔を眩しくてりつけている斜陽は、もとウラジーミル大公の宮殿だったというその部屋の、天井や壁についている金の縁飾りを燃え立たせている。伸子たちが立って入日を見ている窓のよこに大煖炉があって、その上の飾り鏡に、西日をうけて眩しいその室の白堊の欄間や天井の一部が映っていた。
レーニングラードのこの季節の日没と日の出は一つの見ものだった。対岸に真黒く突立っている三本の煙突の一本めと二本めとの間に沈んだ太陽は、十二三分の間をおいただけで、すぐまた、沈んだところからほんの僅か側へよった地点からのぼりはじめた。沈むときよりも、手間どるようにその太陽はのぼって来る。バルト海からの上げ潮でふくらみはじめたネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の水の重い鋼色の上を光が走った。河岸通りには、人通りが絶えている。こういう時間の眺めは憂愁にみち、また美しかった。伸子はレーニングラードという都会がそんなにも北の果ちかくあることや、地球の円さが日没と日の出とにそんなにはっきりあらわされる自然にうたれた。
レーニングラードは、ソヴェト同盟の首都でない。このことが、半年モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でばかり生活しつづけて来た伸子と素子とに、レーニングラードへ来てみるまではわからなかったそこでの暮しの味わいを知らせた。
レーニングラード※[#二分ダーシ、1−3−92]ヴ・オ・ク・ス(対外
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