ソさね、土台会おうなんて――」
「じゃ、そう書いちゃえ」
「そうだ、そうだ」
 素子の書いたノートを、二人でホテルの受付へもって行った。そして、ゴーリキイの室の鍵箱へいれてもらった。ゴーリキイは八番の室であった。
 翌朝、伸子たちはその返事を自分たちの鍵箱に見出した。その次の日の朝十時半に、ゴーリキイは伸子たちを自分の室で待つということだった。
 伸子は白地にほそい紅縞の夏服をつけ、素子は、白ブラウスの胸に絹糸の手あみのきれいなネクタイをつけ、約束の朝の時間きっちりに、八番のドアをたたいた。
 白く塗られた大きいドアがすぐ開けられた。びっくりするほど背の高い、うすい栗色の髪をした若い男が、これはまたドアを開けたすぐのところに立っている二人の女があんまり小さいのにおどろいたようだった。
「こんにちは。どんな御用でしょう」
 こごみかかるようにして訊いた。いくらか上気した頬の色で素子が自分たちの来たわけを告げた。
「ああ、お待ちしていました。お入りなさい」
 狭い控間をぬけて、その奥の客室へとおされた。そこの窓にも小ネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の眺望があった。室のまんなかにおかれている大理石のテーブルの上に、どうしたわけかぽつんと一つ皿がおいてあって、ひと切れのトーストがのっていた。
 奥の別室に通じているもう一つのドアがあいた。ゴーリキイが出て来た。伸子たちを案内した若い背の高い男と一緒に。写真で見覚えているよりも、ゴーリキイはずっとふけて大柄な体から肉が落ちていた。同時に、薄灰色の柔かな布地の服を着ているゴーリキイには、写真でわからない老年の乾いた軽やかさがあった。二人つれだったところを見ると、一目で若い男がゴーリキイの息子であるのがわかった。二人とも背の高さはおつかつで、骨骼もそっくりだった。けれども、ちょっと形容する言葉の見出せないほど重々しく豊富なゴーリキイの顔と、善良そうであるけれどもどこか力の足りなくて、背がのびすぎたようなゴーリキイの息子とは、何とちがっているだろう。ゴーリキイ父子をそういうものとして目の前に見ることも伸子の心にふれた。ゴーリキイは大きくてさっぱりと暖い掌の中へ、かわりがわり伸子と素子の手をとって挨拶した。
「おかけなさい」
 そして、自分もゆったりした肱かけ椅子にかけながら、
「私の息子です」
 わきに立っている若い男を伸子たちに紹介した。
「私の秘書として働いています」
 多分このひとの子供だろう、ゴーリキイが、赤坊をだいてとっていた写真のあることを伸子は思い出した。
 ゴーリキイは、伸子たちに、ソヴェトをどう思うか、ときいた。
 伸子は少し考えて、
「大変面白いと思います」
と答えた。
「ふむ」
 ゴーリキイは、面白い、という簡単な表現がふくむ端から端までの内容を吟味するようにしていたが、やがて、
「そう。たしかに面白いと云える」
と肯いた。
「ソヴェトは、大規模な人類的実験をしています」
 そして、日本へ行ったソヴェト作家の噂が話題になった。また、日本で翻訳されているゴーリキイの作品につき、上演された「どん底」につき、主として素子が話した。
 素子は、素子の訳したチェホフの書簡集を、伸子は伸子の小説をゴーリキイにおくった。ゴーリキイは、綺麗な本だと云って伸子の小説をうちかえして眺めながら、日本の法律は婦人の著作について特別な制限を加えていないのかと素子に向ってたずねた。素子は、
「女でも自分の意志で本が出せます――勿論検閲が許す範囲ですが」
と答えた。ゴーリキイは、
「そうですか」
と意外そうだった。
「イタリーでは、婦人が著書を出版するときには、若い娘ならば父兄か、結婚している婦人なら夫の許可が必要です」
 そして、真面目に考えながら、
「それはむしろ不思議なことだ」
と云った。
「日本というところは婦人の社会的地位を認めていないのに、本だけが自由に出せるというのは――」
「それだけ日本が女にとって自由だということではないと思います」
 伸子が、やっとそれだけのロシア語をつかまえて並べるように云った。
「それは、古い日本の権力が、女の本をかく場合を想像していなかったからでしょう」
「――あり得ることだ」
 社会のそういう矛盾を度々見て来ている人らしく、ゴーリキイは、笑った。伸子たちも笑った。三人の間に、やがて日本の根付《ねつけ》の話が出た。はじめゴーリキイは、誰かにおくられて日本の独特な美術品のニッケ[#「ニッケ」に傍点]をもっていると云った。話してゆくと、それは根付のことだった。
 低い肱かけ椅子にかけているゴーリキイは顔のよこから六月の朝の澄んだ光線をうけて額に大きく深い横皺が見えた。ネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河の小波だつ川面をわたって、ひろく窓から入っている
前へ 次へ
全437ページ中97ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング