ニ考えて居ます。と例の保の、軽いペンのつかいかたの几帳面な細字でかかれていた。
その頃から、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では目に見えて夕方の時間がのびた。午後九時になっても、うすら明りのなかにフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根が艷の消えた金色で大きく浮び、街々の古い建物にぬられている桃色や灰色が単調な、反射光線のない薄明りの中で街路樹の葉の濃い緑とともにパステル絵のように見えた。物音も不思議に柔らかく遠くひびくようになった。
夜のなくなりはじめた広い空に向って、あいている二つの窓にカーテンのない伸子たちの部屋では、いつの間にやら二時三時になった。電車が通らなくなってしまってからの時刻、静かな、変化のないうすら明りにつつまれて、まばらに人通りのあるアストージェンカの街角の眺めは、そよりともしない並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》の深い茂みの一端をのぞかせて、魅力のある外景であった。
窓のそとの小さいバルコニーへ椅子を出して、伸子と素子とはいつまでも寝なかった。伸子は、保が、大学で哲学だの倫理だのを選ぼうとしていることを気にした。
「倫理学なんて、それだけを専門にするような学問なのかしら……あんまりあのひとらしくて、わたし苦しくなってしまう」
くもった真珠色のうすら明りの中で、小さく美しく焔を燃えたたせながら素子はマッチをすってタバコに火をつけた。そして、指先で、唇についたタバコの粉をとりながら云った。
「哲学の方が、そりゃましさね」
「哲学って云ったって……」
保のそういう選択に加わっているに相違ない越智の考えや、それに影響されている多計代の衒学好みを思いあわせ、伸子は信用しないという表情をかえなかった。
「哲学なんかやって、あのひとは益々出口がなくなってしまうばかりだわ、どうせカントなんかやるんだろうから……」
昔東大の夏期講座できいたカントの哲学の講義を思いおこし、保の抽象癖が、カント好みで拡大され組織されるのかと思うと、伸子はこわいような気がした。そんな学者になってしまった保を想像すると、伸子は保の一生と自分の生涯とを繋ぐどんな心のよりどころも失われてしまうように思った。
「あのひとに必要なのは、思いきって社会的にあのひとを突き出してくれる学科だのに」
「経済でもやればいいのさ、いっそのこと。――さもなければ、哲学だって、ここの国でやってるような方法で哲学をやりゃいいのさ。それなら、生きていることはたしかだもの」
でも保は、保のこのみで、あらゆる現実から絶対[#「絶対」に傍点]に影響されない純粋[#「純粋」に傍点]な真理を求めようとしている。そのことは伸子にわかりすぎるほどわかっていた。それは人間と自然の諸関係のおどろくべき動きそのものにわけ入って、その動きを肯定し、動きの法則を見出そうとする唯物弁証法の方向とはちがった。保は、何かの折唯物という言葉にさえ反撥したのを、伸子は覚えていた。利己という字につづいた物質的というような意味に感じて。
しばらく言葉をとぎらせて伸子と素子とがうすら明りの街を見下している午前二時のバルコニーへ、遠くから一つ馬の蹄の音がきこえて来た。その蹄の音は、伸子たちのバルコニーが面している中央美術館通りから響いて来た。石じき道の上へ四つの蹄が順ぐり落ちる音がききわけられるほどゆっくり、アストージェンカに向って進んで来る。やや暫くかかって、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の一台の辻馬車があらわれた。それは、人も馬も眠りながら、白夜の通りを歩いてゆく馬車だった。黒い馬が、頸を垂れて挽いてゆく辻馬車の高い御者台の上で、毛皮ふちの緑色の円型帽をかぶった御者は、すっかりゆるめた手綱をもったまま両手をさしかわしに外套の袖口に入れて、こくりこくり揺られている。座席に一人の酔っぱらいが半分横倒しにのっていた。薄い外套の下に白ルバーシカの胸をはだけ、ギターをかかえている。馬車は、伸子たちの目の前へあらわれたときののろさで、アストージェンカの角へ見えなくなって行った。馬車が見えなくなったあといつまでも、蹄の音が単調なうす明りの中に建ち並んでいる通りの建物に反響して、伸子たちのところまできこえた。
伸子は、翌日、保へあて、手紙をかいた。伸子には、倫理学が独立した専門の学問として考えられないこと。哲学そのものが、今日の世界では進歩して来ている。彼は、どういう方向で哲学をやって行こうとしているのか知らしてほしい、そういう意味を書いた。
伸子が保へその手紙を出して一週間ばかり立ったとき、おっかけて保からまた一枚のハガキが来た。それには、前のたよりと何の関係もなく、保の夏のプランが語られていた。僕はこの夏は一つ大いに愉快にやって見ようと思います。保
前へ
次へ
全437ページ中95ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング