ネったころ、日本ではじめてフィルハーモニーという洋楽愛好者の組織が出来た。パトロンは、泰造と友人めいた交渉を持つそのバロンだった。その第一回のコンサートのとき、伸子はおしゃれをして、親たちとその音楽会をききに行った。そしてバロン夫妻に紹介されたとき、その人たちの光沢のよい雰囲気に伸子は亢奮と反撥とを同時に感じた。二様の感情をうけながら伸子は、我しらず利発そうな洗練された娘として自分をあらわした記憶があった。そういうところが、自分にそれを認めることがいつもきらいな伸子の腹立たしいすべっこさだった。
素子に話しそうになりながら、話さなかったことのいきさつは、父の泰造に対すると同時に自分にも連関する伸子のこういう新しい気持の過程だった。それぞれの人がもっている道徳観というものも、その人たちの属す階級の利害に作用されている。それは、泰造についてみても真実だった。その真実は、伸子が生れかかっているイヴのように半分そこからぬけかかってまだ全体はぬけきっていない中流性にもあてはめられた。泰造がその限界の中では誠実な人であり、清廉な人であることにちがいはなかった。でも、伸子が新しく感じとった泰造の限界、自分の限界は、伸子にとってそれが分らなかった以前に戻すことは不可能だった。無条件に父を肯定しつづけ、父を肯定する自分を肯定して来た伸子にとって、こういう思いは、一段落がついたとき、痩せた自分に心づくような心の中の経験であった。
三月十五日の事件に関連して、社会科学の研究会を指導していた京大や九大の教授の或る人々を、文部省ではやめさせるように命令し、大学総長たちはそれをすぐ承知しないという新聞の記事があった。しかし、結局辞職勧告をうけて京大の山上毅教授そのほかのひとが大学を去ることになった。山上毅教授の勅任官服をつけた写真とそのニュースとがのっている新聞に、伸子が校正を友達の河野ウメにたのんでモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ立って来た長い小説がやっと本になって発売される広告があった。
間もなく、河野ウメから、出来た本を送ってよこした。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の町に、本はどっさりあるけれども、紙質もまだわるく、装幀も粗末だった。そういう本ばかりみている伸子は、送られて来た自分の本の立派さにおどろいた。
「いい本ねえ」
アストージェンカの室の机の上で小包をほどいて、伸子と素子とは、ひっぱり合うようにしてその美しい柿の絵のある和紙木版刷の表紙をもつ天金の本を眺めた。
その小説は日本の中産階級の一人の若い女を主人公としていた。溢れようとたぎりたつ若々しい生活意欲と環境のはげしい摩擦を描いたその小説のかげには、伸子自身の歓迎されない結婚とその破綻の推移があった。上質の紙にルビつきの鮮やかな活字で刷られているその本の頁をひらいて、テーブルの前に立ったまま伸子は、あちらこちらと、自分のかいた小説をよんだ。
「わたしにもお見せよ」
と手を出す素子に本をわたし、小包紙や紐の始末をしながら、伸子は、ソヴェトの女のひとたちに果してこの小説にこめられている日本の女性の様々な思いが同感できるだろうかしら、と思った。
「――ここじゃあ、却ってこの小説の男の立場を女にした場合の方が多くて、それならここのひとたちにもわかるんじゃないか」
素子が云う、男の立場というのは、主人公の夫である人物のことだった。その男は、若い妻が、息づまる生活環境に辛抱できないでもがく心持を理解することが出来ず、夫として妻を愛しているという自分の主観ばかりを固執して、複雑な関係の中で破局に導かれる人物だった。
「そうともちがうんじゃない?」
伸子は、その本の美しい小花の木版刷のついたケースをいじりながら云った。
「『インガ』みたいな芝居でも、夫にとりのこされた女は自分で自分を伸してゆく余力をもっているし、またそれが可能な条件を社会生活の中でもっているんだもの……」
伸子のその小説に描き出されているような娘の生活に対する親の執拗な干渉ということ一つとってみても、それはもうソヴェトの社会の習慣と感情のなかからはなくされている事実だった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のメーデイの行進の轟きの上に、象徴的に大きくされた赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]を見たのが、日本の女であり、娘である伸子ばかりであったように。しかも、それは、伸子を愛していると自分でかたく信じている父の手によってひかれている赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]を。――
前後して、保から久しぶりにたよりが来た。またハガキだった。温室は好調でメロンが育ちつつあるということや、僕もそろそろ大学の入学準備で、科の選定をしなければならない。姉さんはどう思いますか、僕は大体哲学か倫理にしよう
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