ノ、困ったとき両手をひろげるしぐさをしてみせながらニューラに云った。
「みておくれ、私たちはまだ着物をきていないんだから……どうかニューラ、お客の名をきいて来ておくれ」
 いそいで寝床のしまつをし終りながら、伸子が、
「朝っから誰なのかしら」
 不思議そうに云った。もし秋山宇一なら、こんな朝のうちに来るわけはなかった。まして、気のつく内海厚がついていて、伸子たちの寝坊は知りぬいているのだから。
 ニューラが戻ってきて、またドアから首をさし入れた。
「お客さんは、ミャーノってんだそうです。レーニングラードからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へついたばかりだって」
「ミャーノ?」
 素子はわけの分らない表情になった。が、
「それはロシア人なの? 日本人なの?」
 改めて気がついてききただした。ニューラには、はっきり日本人というものの規定がわからないらしくて、迷惑そうにドアのところでもじもじと立っている足をすり合わした。
「ロシア人じゃないです」
 そのとき、伸子が、
「ね、きっとミヤノって名なのよ。それがミャーノってきこえたんだわ、ニューラに……そうでしょう?」
「ああそうか、なるほどね。それにしたって宮野なんて――知ってるかい?」
「知らないわ」
「だれなんだろう」
 ともかく、廊下で待っていて貰うようにニューラにたのんで、伸子たちは、浴室へ行った。
 顔を洗って室へ戻ろうとすると、ほんのすこし先に行った素子が、
「おや! もう来ていらしたんですか!」
と云っている声がした。それに対して低い声で何か答えている男の声がきこえる。伸子は、その声にきき耳を立てた。ニューラが間ちがえて通してしまったんだろうか。女ばかりの室へ、いないうちに入っているなんて――。伸子は浴室から出られなくなってしまった。例のとおり紫の日本羽織はきているものの、その下はスリップだけだった。
 浴室のドアをあけて、伸子は素子をよんだ。そして、もって来て貰ったブラウスとスカートをつけ、又、その上から羽織をはおって、室へ戻ってみると、ドアの横のベッドの裾のところの椅子に、一人の男がかけている。入ってゆく伸子をみて、そのひとは椅子から立った。一種ひかえめな物ごしで、
「突然あがりまして。宮野です」
と云った。
「レーニングラードでバレーの研究をして居られるんだって」
「着いて停車場から真直《まっすぐ》あがったもんですから、朝から大変お邪魔してしまって……」
 そのひとはほんの一二分の用事できている人のように、カラーにだけ毛のついた半外套をきたまま、そこにかけていた。伸子は、その形式ばったような行儀よさと、いきなり女の室に入っていたような厚かましさとの矛盾を妙に感じた。意地わるい質問と知りながら伸子は、
「秋山宇一さんとお知り合いででもありますか」
ときいた。
「いいえ。――お名前はよく知っていますがおめにかかったことはありません。まだ居られるそうですね」
「じゃ、どうして、わたしたちがこんなところにいるっておわかりになったのかしら――」
 紹介状もない不意の訪問者は二十四五で、ごくあたりまえの身なりだった。ちょっとみると、薄あばた[#「あばた」に傍点]でもあるのかと思うような顔つきで、長い睫毛が、むしろ眼のまわりのうっとうしさとなっている。
 宮野というひとは、遠慮ない伸子のききかたを、おとなしくうけて、
「大使館でききましたから」
と返事した。伸子には不審だった。レーニングラードからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ着いて真直来たと云った人が、大使館で、きいて来たという、前後のいきさつがのみこめなかった。しばらくだまっていて、伸子が、
「――きょうは何曜?」
 ゆっくり素子に向って、注目しながらきいた。
「日曜じゃないか!」
 わかりきってる、というように答えたとたん、素子はそうきいた伸子の気持をはっきりさとったらしかった。日曜日の大使館は、一般の人に向って閉鎖されているのだった。ふうん、というように、素子はつよく大きくタバコの煙をはいた。
「ずっとレーニングラードですか?」
 こんどは素子がききはじめた。レーニングラードはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]より物価もやすいし、住宅難もすくないから、レーニングラードにいるということだった。同じような理由から、外務省の委托生――将来領事などになるロシア語学生も、何人かレーニングラードにいるということだった。
「バレーの研究って――わたしたちはもちろん素人ですがね、自分で踊るんですか」
「そうじゃありません、僕のやっているのは舞踊史とでもいいましょうか……何しろ、ロシアはツァー時代からバレーではヨーロッパでも世界的な位置をもっていましたからね。――レーニングラードには、もと王立バレー学校
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