h寒靴のままはいれた。人々の足にあるのは働く人々がはいている粗末で岩乗なワーレンキだった。同じような群集にまじって、伸子はいれかわりに一番おそい上映を観た。その週は、性病についての文化映画と、国内戦時代のエピソードを扱った劇映画だった。
アストージェンカの生活には、三重顎のクラウデも現れず、ポリニャークも遠くなった。伸子の心は次第に重心を沈め、心の足の裏がふみごたえある何ものかにふれはじめた感じだった。それは伸子に、ものを書きたい心持をおこさせはじめた。
丁度そのころ、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の雪どけがはじまった。伸子の住んでいる建物の板囲いのなかにも、往来にも、並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》の真中にも、雪解けで大小無数の水たまりが出来た。昼間、カンラカラララと雨樋をむせばしてとけ落ちている屋根の雪や往来の雪は、はじめのうちは夜になるとそのまままた凍った。柔かい青い月光が、そうやって日中に溶けては夜つるつるに凍る雪を幾晩か照し、やがて、もう夜になっても雪は凍らなくなって来た。そうなるとモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]じゅうはねだらけの、ほんものの早春が来た。馬も人もはね[#「はね」に傍点]だらけになって往来し、冬のうち積った雪に吸いとられていた生活の音響がゆるんだ雪の下からいっせいに甦って来た。道のひどいぬかるみと、抑えるに抑えきれないような生命のそよぎ、歩くどの道もいまにも辷りそうにつるつるしたこわさなどで、にわかに重さの感じられる冬外套の下で伸子は汗ばみながら上気した。食料品販売所のドアをあけて入ると、その内部は冬の間じゅうより奥が深く暗く感じられ、ゆるんだ店内の空気に、床にまかれている濡れオガ屑の鼻をさすような匂いと、燻製魚類の燻しくさい匂いとがつよくまじった。つり下げられている燻製魚の金茶色の鱗にどこからか一筋射し込む明るい光線があたって、暗いなかに光っている。そんな変化も春だった。
伸子のものをかきたい心持は、一層せまった。瞳のなかに疼く耀《かがや》きをもって、伸子がマリア・グレゴーリエヴナの稽古から、アストージェンカの角を帰って来ると、毛糸のショールを頭のうしろへずらした婆さんの物売りが、人通りのすきから、
「|お嬢さん《バリシュニア》!」
と伸子をよびとめた。そして一束の花束をさし出した。
「|雪の下《ポド・スネージュヌイ》! 春の初花、お買いなさい、あなたのお仕合せのために」
伸子はその花束を眺め、ポケットからチャックつきの赤いロシア鞣の小銭入れを出し、婆さんに三十五カペイキやって花束をうけとった。雪の下という花は、日本で伸子の知っている雪の下のけば立った葉とちがって、つるつるした団扇《うちわ》形の葉をもっていた。その葉を五枚ばかり合わせてふちどりとしたまんなかに、白菫に似たような肉あつの真白な花が数本あつめられている。いかにも雪の下から咲いた早春の花らしく茎のせいが低かった。手袋をはめた指先で摘むようにその小さい花束をもち、アパートメントの段をのぼって行きながら、伸子は顔をよせて香をかいだ。雪の下の真白い花はかおりらしい香ももっていない。それでも、これは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の春の初花にちがいなかった。伸子は、ガラスの小さい杯に水を入れて花束をそこにさした。そして、大机の自分の領分に飾った。ガラス杯の細いふちに春の光線がきらめいている。窓のそとのフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの丘の上は、そこも一面の雪どけで、不規則に反射する明るさのために大きな金の円屋根はひとしお金色にかがやいて見える。
――伸子は、ものを書きはじめた。
二
その日は日曜日だった。素子は、この頃たいてい毎日モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学の文科の講義をききに行っていた。その留守の間、伸子は一人をたのしく室にいた。そして伸子の旅費を出している文明社へ送るためにモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の印象記を書いていた。日曜は素子の大学も休みだし、従って一つしかテーブルのない室では伸子の書く方も休日にならないわけにゆかず、二人は、ゆっくりおきて、素子は背が高いからそっちに臥《ね》ているベッドの方を、伸子は背が低いからこっちに臥ているディヴァンを、それぞれ片づけていた。
そこへドアをノックして、ニューラがギリシア式の、鼻筋のとおった浅黒い顔をだした。そして、なまりのつよい発音で、
「あなたがたのところへ、お客ですよ」
と告げた。
伸子と素子とは思いがけないという表情で顔を見合わせた。誰が来たんだろう。二人はまだ起きたばかりでちゃんと衣服をつけていなかった。
「――仕様がないじゃないか!」
素子が、ロシア風
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