V−82]にも人間の古い不幸としての貧や狡猾がのこっているのを目近に目撃した。
「もうすこしさがしてみましょうよ。ね?」
 伸子は熱心に云った。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で外国人に室をかすものは、ほんとにいかがわしい者や、時代にとりのこされたような人しかないのかどうか、わたし知りたいわ」
「そりゃ探すさ、ほんとにさがしているんだもの――」
 女子大学の学生時代から、借家さがしや室さがしに経験のある素子は、しばらく考えていたが、
「もしかしたら、広告して見ようよ、ぶこちゃん」
と云った。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊か何かに――かえってその方が、ちゃんとしたのが見つかるかもしれない。あさっての約束の分ね、それを見て駄目だったら、広告にしよう」
 あさってという日、三人が行ったのは、ブロンナヤの通りにある一軒の小ぢんまりした家だった。外壁の黄色い塗料が古くなってはげているその家の二重窓の窓じきりのかげに、シャボテンの鉢植がおいてあるのが、そとから見えた。
 呼鈴にこたえて入口をあけたのは三十をこした丸顔の女で、その人をみたとき、伸子は自分たちが楽屋口へ立ったのかと思った。女は、映画女優のナジモ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]アが椿姫を演じたときそうしていたように、黒っぽい断髪を頭いっぱいの泡立つような捲毛にしていた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では見なれないジャージの服を着て、赤いコーカサス鞣の室内靴をはいている。そういういでたちの女主人は伸子たちをみると、
「今日は」
と、フランス語で云った。
「どうぞ、お入り下さい」
 それもフランス語で云って、マリア・グレゴーリエヴナに、
「この方たちは、二人一緒に室をかりようとしているんでしょうか」
とロシア語できいた。
「ええ、そうですよ、もちろん」
 マリア・グレゴーリエヴナは照れたように正直な茶色の眼を見開いて、
「彼女たちはロシア語が十分話せるんです。どうか、じかにお話し下さい」
と、丸っこい鼻のさきを一層光らした顔で云った。
「まあ! それはうれしいですこと! ロシア語を野蛮だと思いなさらない外国の女のかたには滅多におめにかかったことがありませんわ」
 更紗の布のはられた肱かけ椅子に伸子たちはかけた。
「この室はね、外が眺められてほんとに気の晴れ晴れする室なんです。ずっとわたしの私室にしていたんですけれど――」
 捲毛の泡立つ頭をちょいとかしげて、言葉をにごした女主人は、あとはお察しにまかせる、という風に、媚《こび》のある眼まぜをした。
「――教養のある方と御一緒に棲めればしあわせです」
 スプリングの上等なベッドを二つと、衣裳ダンスと勉強机その他はすぐ調えられるということだった。
「私には便宜がありますから……。それに時間で通う手伝いをたのんで居りますから、食事も、おのぞみならいたしますよ。白い肉か鶏でね――わたしも娘もデリケートな体質で白い肉しかたべられませんの……」
 女主人がそう云ったとき、マリア・グレゴーリエヴナは、ひどく瞬きした。女主人が浮き浮きした声で喋れば喋るほど、素子は、もち前の声を一層低くして、
「で、これからこの室へ入れる家具っていうのは――、費用はあなたもちなんですか?」
 タバコを出しかけながら面白がっている眼つきできいている。
「あら、――それは、あらためて御相談しなくちゃ」
 素子は何くわぬ風で、外国人というロシア語をすべて男性で話しながら、
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に、室をさがしている外国人はどっさりいるんでしょう、こんないい室なら、家具を自分もちでも来る外国人があるだろうに……」
と、云った。女主人は、素子が外国人を男性で話したことには心づかなかった表情で、
「おことわりするのに苦労いたしますわ」
と云った。
「ちゃんとした家庭では、一緒に住む人の選びかたがむずかしくてね。わたし、娘の教育に生涯をかけて居りますのよ」
 女主人は、うしろのドアの方へ体をねじって、遠いところにいるひとをよぶように声に抑揚をつけ、
「イリーナ」
とよんだ。
 待ちかまえていたようにすぐドアがあいた。スカートの短すぎる赤い服に、棒捲《ロール》毛を肩にたらした八つばかりの娘が出て来た。
「娘のイリーナです。大劇場の舞踊の先生について、バレーの稽古をさせて居ります。――本当の、古典的なイタリー風のバレーを。さあ、可愛いイリーナ、お客さまに御挨拶は?」
 すると、イリーナとよばれたその娘は、まるで舞台の上で、踊り子がアンコールに答えるときにでもするように、にっこり笑いながら、赤い服のスカートを左右につまみあげて、片脚を深くうしろにひいて膝を曲げるお辞儀をした。全くそれが、この娘に仕込まれた
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