リ建の新しい家がたっていた。ここは部屋の内部も丸木がむき出しになっている建てかたで、床の塗りあげもまだしてなかった。ガランとした室に白木の角テーブルが一つあった。室へ案内したそこの主婦は堂々として大柄な四十ばかりの女で、ほそいレースのふちかざりのついた白い清潔なプラトークで髪をつつんでいた。重い胸の前に両腕をさし交しに組んで戸口に立ち、いかにも彼女のひろい背中のうしろに、一九二一年の新経済政策《ネップ》以来きょうまでの世渡りのからくりはかくされていると云いたげに、きつい大きい眼だった。主婦は、伸子たちの着ている外套の生地やそれについている毛皮をさしとおすような短い視線で値ぶみしながら、愛嬌のいい高声で、その辺の空気がいいことや、前は原っぱで景色のいいことを説明し、一ヵ月分として郊外にしてはやすくない部屋代を請求した。
 家具らしいものが一つも入っていず、きつくチャンの匂うその新築丸木建の室の窓からは、貧弱な楊が一二本曲って生えている凹地が見はらせた。いまこそ一面の雪で白くおおわれて野原のように見えているが、やがて雪がとけだしたとき、その下から広いごみすて場があらわれることはたしかにみえた。伸子は、そういう窓外の景色を眺めながら、
「ここでは夜芝居の帰りみちがこわいわ。街燈がなかったことよ」
と云った。それは一つの理由で、この大柄で目つきがきつく、冷やかで陽気な主婦は、伸子たちがおじるような胸算用のきびしさを直感させた。
 劇場がえりが、女ばかりだから遠い夜道はこわいということは、眼つきのきつい主婦も認めた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では何よりむずかしいとされている室さがしを伸子たちにたのまれたマリア・グレゴーリエヴナ[#「グレゴーリエヴナ」は底本では「グリゴーリエヴナ」]は、何かのつてでやっと手に入れた所書きだけをたよりに、自分でも先方のことは知らないまま、伸子と素子とを連れて見に来たのだった。
 その家を出てまた雪道をバスまで戻りながら、伸子は、自分たちのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]暮しも段々とモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]市民生活の臓腑に近づいて来た、と思った。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の臓腑は赤い広場やトゥウェルスカヤ通りだけでは分らない色どりと、うねり工合と、ときに悪臭と発熱とで歴史の歯車にひっかかっている。
 ワフタンゴフ劇場の通りには、横丁が網目のように通じていた。或る日のおそい午後、伸子たち三人は、所書きをたどってその一つの横丁の、ひどく高い茶色の石壁のわきにある袋小路を入って行った。貸す室というのは、袋小路のなかの、ひどく燻《くす》ぶった煉瓦の二階建の家の地階にあった。階段わきの廊下に面しているドアをあけると、その建物の薄ぐらさと湿気とをひとところにあつめたような一室があった。どういうわけか、その室の二重窓ガラスの二枚が白ペンキで塗りつぶされていた。それは暗くしめっぽいその室に不具者のような印象を与えた。ガラスから外の見える部分には、ほんのすこしの間隔をおいて一本の楡の大木の幹と、すぐそのうしろの茶色の石壁が見えた。どこからも直射光線のさし込まないその室に佇んで、茶毛糸の肩かけで両方の腕をくるみこんでいる蒼白い女が、飢えたように輝く眼差しを伸子たちの上に据えながら、
「おのぞみなら、食事もおひきうけします」
と熱心に云った。
「料理にはいくらか心得がありますし……ここの市場はものが割合やすくて、種類もたっぷりあるんです……」
 きれぎれな言葉で外套のどこかをひっぱるような貸し主の女のものの云いかたには、ほんとに部屋代を必要としている人間の訴えがこもっていた。その室にしばらく立っていると、この家のどこかにもう長いこと床についたままの病人がいて、見えないところからこの交渉へ神経をこらしているような感じだった。かりにこの室で我慢するとしても伸子たちが借りることの出来る寝台が一つしかなくて、補充する寝椅子も、そこにはなかった。
 こういう風なところをあちこち歩いてホテルへかえると、小規模なパッサージの清潔さと設備の簡素な合理性とが改めて新鮮に感じられた。
「こうしてみると、住めるような部屋ってものは容易にないもんだね」
 素子がタバコを深く吸いながら云った。
「いまのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で外国人に室をかそうとでもいうような者は、あの丸木小舎のかみさんのような因業な奴か、さもなけりゃ、きょうみたいな、気の毒ではあるがこっちの健康が心配だというような室しかもっていないような人しかないんだね」
 伸子はじっと素子をみて、体のなかのどこかが疼くような表情をした。室さがしにあっちこっち歩いてみて、伸子はまだモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−
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