w動物の生活』というお伽噺《とぎばなし》めいた本を伸子が買って来たことがあった。やさしそうなケンペルの文章は、言葉づかいがいかにも未来派出身の女詩人らしく、それがわかれば気がきいているのだろうが、伸子にはむずかしかった。
「ありゃ、たしかに気取ってるよ」
「――でも、わたしたちが、彼女の文章はむずかしいと云ったら、大変きげんがわるかったわねえ」
「そうそう、御亭主に何だか云いつけてたね」
それは半月ばかり前のことであった。伸子たち二人が秋山宇一のところにいたら、そこへ、シベリア風のきれいな馴鹿《となかい》の毛皮外套を着て、垂れの長い極地防寒帽をかぶったグットネルが入って来た。まだ二十三四歳のグットネルはメイエルホリドの演出助手の一人であった。秋山たちが国賓として日本を出発するすこし前にグットネルが日本訪問に来たとき、彼は、メイエルホリドの演出家として紹介された。演劇人でソヴェトから来たはじめての人であったため新劇関係の人々に大いに款待され、日本でその頃最も新しい芝居として現れていた表現派の舞台を、メイエルホリドの手法に通じる斬新なものという風に語られた。秋山宇一と内海厚とは、帰国するグットネルと一緒にモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来た。そして、自然、若いグットネルがメイエルホリドの下で実際に担当している活動の範囲も、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の現実の中で理解した。それから、ずっと普通の交際をつづけているらしかった。伸子たちは、それまでに二三度秋山の室でグットネルにあったことがあった。
その晩、秋山の室でおちあったグットネルは、伸子たちをみると、まるでその用事で来たように、二人をヴェラ・ケンペルの家へ誘った。
黄色と純白の毛皮をはぎ合わせた派手なきれいな毛皮外套をきたままの若々しいグットネルにタバコの火をやりながら、素子はうす笑いして、
「突然私たちが行ったって、芝居へ行っているかもしれないじゃありませんか」
と云った。
「ケンペルは、こんや家にいるんです。僕は知っています」
寒いところをいそいで歩いて来た顔のうすくて滑かな皮膚をすがすがしく赤らませ、グットネルは若い鹿のような眼つきで素子を見ながら、
「行きましょう」
と云い、更に伸子をみて、
「ね、行きましょう(ヌ・パイディヨム)」
すこし体をふるようにして云った。
素子は、じらすように、
「あなたと私たちがここで今夜会ったのは、偶然じゃありませんか」
「ちがいます」
それだけ日本語で云ってグットネルは伸子たちを、部屋へ訪ねて誘うために来たのだと云った。
「偶然なら、なお私たちはそれをたのしくするべきです、そうでしょう?」
到頭三人で、ヴェラ・ケンペルの住居を訪ねることになった。大通りから伸子によくわからない角をいくつも曲って、入口が見えないほど暗い一つの建物を入った。いくつか階段をのぼって、やっぱり殆ど真暗な一つのドアの呼鈴を押した。
すらりとした、薄色のスウェター姿の婦人が出て来た。それが、ケンペルだった。
狭い玄関の廊下から一つの四角いひろい室にはいった。あんまり明るくない電燈にてらされている。その室の一隅に大きなディヴァンがあった。もう一方の壁をいっぱいにして、フランス風の淡い色調で描かれた百号ぐらいの人物がかかっていた。その下に、膝かけで脚をくるんだ一人の老人が揺り椅子によっていた。伸子たちは所在なさそうに膝かけの上に手をおいているその老人に挨拶をしてそこをとおりぬけ、一つのドアからヴェラの書斎に案内された。
「見て下さい。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の住宅難はこのとおりですよ。私たちは、まるで壁のわれ目に棲んでいるようなもんです」
ほんとに、その室は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てから伸子が目撃した最も細長い部屋の一つだった。左手に、一つ大窓があって、幅は九尺もあろうかと思う部屋の窓よりに左光線になるようにしてヴェラの仕事机がおいてあった。伸子たちが並んで腰かけたディヴァンが入口のドアの左手に当るところに据えられていて、小さい茶テーブルや腰のひくい椅子があり、その部分が応接につかわれていた。一番どんづまりの三分の一が寝室にあてられているらしくて、高い衣裳箪笥が見えた。素子が、
「わたしたちは、いまホテルにいますけれど、そろそろ部屋をさがしたいと思っているんです」
と言った。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で貸室さがしをするのは、職業を見つけるより遙かに難事業です――グットネル、あなたの友情がためされる時が来ましたよ」
よっぽどその馴鹿の毛皮外套が気にいっているらしく、ヴェラの室へもそれを着たまま入って来て、ドアによりかかるようにして立っていたグットネルが、
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