ゥった。ところが昨夜、ポリニャークのところへよばれて、あんなにひょいと、二本の脚でしゃんと立っていた筈の自分が床の上から体ごと掬い上げられた経験は、伸子が自分についてもっていた安定感を、ひっくるかえした。ポリニャークに、あんな風にやすやすと掬い上げられてしまったことには、体力も関係した。ポリニャークの大さ、力のつよさに対して、あんまり伸子は小さかった。日本人の男と伸子との体力の間にはあれだけの開きはない。あいてになりようない力を働かしてポリニャークは一人前の女である伸子をあんなにいきなり掬いあげた。無礼ということばの、真の感覚で伸子はそれを無礼と感じた。同時に、ひとから無礼をはたらかれるような理由も動機も自分はもっていないように天真爛漫だった伸子のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]暮しの気分も、ゆらいだ。これからも屈辱的な扱いにあうかもしれないモメントを自分がもっているということを伸子は知らされたのであった。二月の夜霧が流れるトゥウェルスカヤ通の、下り坂になった広い歩道をいそいで来る伸子のこころの孤独感は、素子にも話さない、そういう感情とつながっていた。
その晩は、これまでなら、素子のところへモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河のむこうから女教師が来るはずの日だった。そして、伸子は二時間ばかりどこかへ行っていなくてはならないわけだった。今週からその女教師は、むこうからことわって来て、やめになった。伸子が、未払いになっていた授業料を届けがてら、素子のつかいで、病気だというハガキをよこしたその女教師のところへ行った。丁度午後三時すぎの日没がはじまる頃で荒涼と淋しい町はずれの一廓の、くずれかかったロシア風の木柵に沿って裸の枝をつきたたせている白樺の梢に、無数のロシア烏が鈴なりにとまって塒《ねぐら》につく前のひとさわぎしているところだった。その空地に壁を向けて建っている建物の、スープを煮る匂いのこもった薄暗い室で、その女教師はアボルトしたあとの工合がよくなくて、出教授は当分やめなければならないと云った。煤がかかってよごれていたその界隈の雪の色や、空地にくずれた柵、裸の梢に鈴なりに群れさわいでいた烏の羽音など、伸子の印象にのこる景色だった。
そういうわけで今夜は、伸子も室にいてよかった。素子が自分の勉強がてらプレハーノフの芸術論をよもうということになった。素子がひとりで音読し、ひとりで訳した。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のどこの劇場へ行っても、劇評を見ても、弁証法的な演出とか手法とかいうことがくりかえされていたが、伸子たちにはどうもその具体的な内容がのみこめなかった。メイエルホリドでは「トラストD・E」を上演していて、解説には資本主義の批判をテーマとした脚本の弁証法的演出とあった。しかし伸子たちが観た印象では、その芝居は極端な表現派の手法としか感じられなかった。プレハーノフをよもうといい出した素子の動機は、そういうところにもあるのだった。
素子のよむプレハーノフの論文の一字一字を懸命に追ってゆくうちに、伸子は、この芸術論が、案外ジョン・リードの「世界を震撼させた十日間」よりもわかりやすいのを発見した。時々刻々に変化する緊張した革命の推移を、ジャーナリスティックな複雑さと活溌なテムポとで描き出し記録しているリードの文章よりも、理論を辿って展開されてゆくプレハーノフの文章の方が、感情的でないだけに、伸子についてゆきやすかった。
「こうしてみると小説ってむずかしいわねえ」
「そりゃむずかしいさ、文章が動いているもの――」
「わたしには、とても小説の方はのぞみがないわ。――一字一句格闘なんだもの」
「なれないからさ」
「それもあるだろうけれど……」
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てからは、とくに字をよむよりさきに耳と口とを働かせなければならない必要が先にたって、伸子のロシア語のちんばな状態は一層ひどくなった。話す言葉は、間違いだらけでも、必要によって通用した。伸子の読み書く能力は、非常に劣っていた。自分の片ことのロシア語についても、伸子は昨夜の「にぇ まぐう」のことから不快を感じはじめているのだった。
「いまの作家で、だれの文章がやさしいのかしら」
素子は、考えていたが、
「わからないね」
と云った。
「外国人にわかりやすい文章とロシア人にわかりやすい文章とは、すこしちがうらしいもの。大体、ロシア人は新しい作家のは、やさしいっていうけれど、わたしたちには反対だ、訛《なまり》や慣用語、俗語が多くて――バーベリなんかどうだい。文章はがっちりしていてきもちいいけれど、やさしいどころか」
それは伸子にも推察された。
「ケンペルの文章、ほんとにやさしいのかしら」
本屋でヴェラ・ケンペルの
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