アにほほ笑んでいる。薄色の服をつけた優《や》さがたの彼女の雰囲気には、今夜のテーブルの用意もした主婦らしいほてりがちっとも感じられなかった。それかと云って、作家である良人と並んで、芸術家らしく活溌にたのしもうとしている風情もなかった。彼女はただ一人の若い女優である妻にすぎないように見えた。この家の主人であるポリニャークの好みによって、選ばれ、主婦としてこの家に収められているというだけの――
 ポリニャーク夫婦の感じは、伸子が語学の稽古に通っているマリア・グレゴーリエヴナの生活雰囲気とまるでちがっていた。マリア・グレゴーリエヴナの二つの頬っぺたは、びっくりするような最低音でものをいう背の高いノヴァミルスキーの頬っぺたと同様に、厳冬のつよい外気にやけて赤くなって居り、丸っこい鼻のさきの光りかたも夫婦は互に似ていた。二人はそれぞれ二人で働き、二人でとった金を出しあわせて、赤ビロードのすれた家具のおいてある家での生活を営んでいる。
 野生の生活力にみち、その体から溢れる文学上の才能をたのしんでいるポリニャークは、自分の快適をみださない限り、女優である細君が家庭でまで娘役をポーズしているということに、どんな女としての心理があるかなどと、考えてないらしかった。
 一座の話題は、酒の話から芝居の評判に移って行った。
 大阪の人形芝居のすきな素子が、
「大阪へ行ったとき、人形芝居を観ましたか」
とポリニャークにきいた。
「観ました。あの人形芝居は面白かった」
 ポリニャークは、それを見たこともきいたこともない夫人とアレクサンドロフに説明してきかせた。
「舞台の上にまた小舞台があって、そこがオーケストラ席になっている。サミセンと唄とがそこで奏されて、人形が芝居をするんだ」
「外国の人形芝居は、あやつりも指使いの人形も、人の姿は観客からかくして演じるでしょう」
 素子は、ロシア語でそう云って、
「そうですね」
と日本語で秋山宇一に念を押した。
「そうです、こわいろ[#「こわいろ」に傍点]だけきかせてね」
「あなた気がつきましたか?」
 またロシア語にもどって素子が云った。
「日本の人形芝居は、タユー(太夫)とよばれる人形使いが、舞台へ人形と一緒に現れます。あやつられる人形とあやつる太夫とが全く一つリズムのなかにとけこんで、互が互の生き生きした一部分になります。あの面白さは、独創的です」
「そう、そう、ほんとにそうだった。ヨシミさん、演芸通なんですね」
 興味を示して、テーブルの上にくみ合わせた両腕をおいてきいている細君の方へ目顔をしながらポリニャークが云った。
「しかし、ノウ(能)というものは、僕たちには薄気味が悪かった」
「ノウって、どういうものかい?」
 アレクサンドロフが珍しそうにきいた。
「見給え、こういうものさ」
 酒のまわり始めたポリニャークは、テーブルに向ってかけている椅子の上で胸をはって上体を立て、顎をカラーの上にひきつけて、正面をにらみ、腕をそろそろと大きい曲線でもち上げながら、
「ウーウ、ウウウウヽヽヽヽ」
と、どこやら謡曲らしくなくもない太い呻声を発した。その様子をまばたきもしないで見守っていたアレクサンドロフが、暫く考えたあげく絶望したように、
「わからないね」
と云った。
「僕にだってわかりゃしないさ」
 みんなが大笑いした。
「可哀そうに! 日本人だってノウがすきだというのは特殊な人々だって、話してお上げなさいよ」
 伸子が笑いながら云った。
「限られた古典趣味なんだもの」
「何ておっしゃるんです?」
 ポリニャークが伸子をのぞきこんだ。
「内海さんがあなたにおつたえします」
 話がわかると、
「それでよし!」
とアレクサンドロフをかえりみて、
「これで、われわれが、『野蛮なロシアの熊』ではないという証明がされたよ。さあ、そのお祝に一杯!」
 みんなの杯にまた新しい一杯がなみなみとつがれた。そして、
「幸福なるノウの安らかな眠りのために!」
と乾杯した。伸子は、また、
「わたしはだめです」
をくりかえさなければならない羽目になった。ポリニャークは、
「やあ にぇ まぐう」
と、鳥が喉でもならすような響で、伸子の真似をした。そして、立てつづけに二杯ウォツカを口の中へなげ込んで、
「自分の国のものでもわれわれにはわからないものがあるのと、同じことさ」
 タバコの煙をはき出した。
「たとえば、ム・ハ・ト(モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]芸術座)でやっている『トルビーン家の日々』あれはもう三シーズンもつづけて上演している。どこがそんなに面白いのか? 僕にはわからない」
「ム・ハ・トの観客は、伝統をもっていて特にああいうものがすきなんだ」
 アレクサンドロフが穏和に説明した。
「そりゃ誰でもそう云っているよ。しかし、
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