ケを右側によこぎって、伸子たちは一つの低い木の門を入って行った。ロシア式に丸太を積み上げたつくりの平屋の玄関が、軒燈のない暗やみのなかに朦朧《もうろう》と現れた。
 内海が来馴れた者らしい風で、どこか見えないところについている呼鈴を鳴らした。重い大股の靴音がきこえ、やがて防寒のため二重にしめられている扉があいた。
「あ――秋山サン!」
 出て来たのはポリニャーク自身だった。すぐわきに立っている伸子や素子の姿を認め、
「到頭、来てくれましたね、サア、ドーゾ」
 サア、ドーゾと日本語で云って、四人を内廊下へ案内した。ひる間、ホテル・パッサージへよったというアレクサンドロフも奥から出て来て、女たちが外套をぬぎ、マフラーをとるのを手つだった。
 かなりひろい奥の部屋に賑やかなテーブルの仕度がしてあった。はいってゆく伸子たちに向って愛想よくほほ笑みながら、ほっそりとした、眼の碧い、ひどく娘がたの夫人がそのテーブルの自分の席に立って待っている。
「おめにかかれてうれしゅうございます」
 伸子たちがその夫人と挨拶をする間も、ポリニャークは陽気な気ぜわしさで、
「もういいです、いいです、こちらへおかけなさい」
と、秋山を夫人の右手に、伸子を自分の右手に腰かけさせた。そして、早速、
「外からこごえて入って来たときは、何よりもさきに先ずこれを一杯! 悧巧も馬鹿もそれからのこと」
 そう云って、テーブルの上に出されているウォツカをみんなの前の杯についだ。
「お互の健康を祝して」
 素子も、杯のふちを唇にあてて投げこむような勢のいいウォツカののみかたで、半分ほどあけた。伸子は、夫人に向って杯をあげ、
「あなたの御健康を!」
と云い、ほんのちょっと酒に唇をふれただけでそれを下においた。
「ナゼデス? サッサさん。ダメ! ダメ!」
 ポリニャークは、伸子が杯をあけないのを見とがめた。
「内海さん、彼女に云って下さい」
 よその家へ来て、最初の一杯もあけないのは、ロシアの礼儀では、信じられない無礼だというのだった。
「わかりましたか? サッサさん、ドゾ!」
 伸子は、こまった。
「内海さん、よく説明して頂戴よ。わたしは生れつきほんとにお酒がのめないたちなんだからって――でも、十分陽気にはなれますから安心して下さいって……」
 内海がそれをつたえると、ポリニャークは、
「残念なことだ」
 ほんとに残念そうに赫っぽい髪がポヤポヤ生えた大きい頭をふった。そのいきさつをほほ笑みながら見ていた夫人が伸子たちにむかって、
「わたしもお酒はよわいんです」
と云った。
「でもレモンを入れたのは、軽いですよ。いい匂いがするでしょう?」
 そう云われてみると、そのテーブルの上には同じ様に透明なウォツカのガラス瓶が幾本もあるなかに、レモンの黄色い皮を刻みこんだのが二本あって、伸子たちの分はその瓶からつがれたのだった。
 素子は気持よさそうに温い顔色になって、
「ウォツカもこうしてレモンを入れると、なかなか口当りがいい」
 のこりの半分も遂にあけた。
「ブラボー! ブラボー!」
 ポリニャークが賞讚して、素子の杯を新しくみたした。
「ごらんなさい。あなたのお友達は勇敢ですよ」
「仕方がないわ。わたしは駄目なんです」
 だめなんです、というところを、伸子は自分の使えるロシア語でヤー、ニェマグウと云った。ポリニャークは面白そうに伸子の柔かな発音をくりかえして、
「わたしはだめですか」
と云った。それは角のある片仮名で書かれた音ではなく平仮名で、やあ にぇまぐう とでも書いたように柔軟に響いた。伸子自身は、しっかり発音したつもりなのに、みんなの耳には、全く外国風に柔かくきこえるらしかった。主人と同じように大きい体つきで、灰色がかって赫っぽい軽い髪をポヤポヤさせている真面目なアレクサンドロフも、伸子を見て、笑いながら好意的にうなずいた。
 やがて日本とロシアと、どっちが酒の美味い国だろうかというような話になった。つづいて酒のさかなについて、議論がはじまった。この室へ入るなり酒をすすめられつづけた困難から解放されて、伸子は、はじめてくつろぐことが出来た。ペチカに暖められているその部屋は、いかにもまだ新しいロシアの家らしく、チャンの匂いがしていた。床もむき出しの板で、壁紙のない壁に、ちょいちょいした飾りものや絵がかけられている。室はポリニャーク自身の大柄で無頓着めいたところと共通した、おおざっぱな感じだった。自分なりの生活を追っている、そういう人の住居らしかった。
 ポリニャークは、同じようなおおざっぱさで、細君との間もはこんでいるらしかった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]小劇場の娘役女優である細君は、ブロンドの捲毛をこめかみに垂れ、自分だけの世界をもっているように、しずかにそ
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