セ、とかみそりで切られたきず[#「きず」に傍点]がいつまでもつかないように傷のうずきを感じた。
 磯崎の子供の寂しいきょうの葬式の次第は、淡彩の鉛筆画のように目の前にあったが、保の葬式について伸子は何ひとつ描くべき画をもっていなかった。彼が自殺した。その衝撃があんまり大きくて、父の泰造が自筆でモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいる姉娘の伸子のために書いてよこした手紙にも、葬式のことはわれしらず省略されていた。保は死んだ。ただ一つの動かすことのできない事実。しかも、伸子にとっての保は、きょうも二十歳の高校生で、ぽってりとした上瞼をもち、口ひげのある上唇をもち、あどけなく両手でふとり気味の膝をたたいて笑う生きた保である。
 愛するものが死ぬと、そのおもかげから、年月の間にかさねられているさまざまのやさしい思い出までが、いっしょに死んで、生きのこったものの心から消えてしまうものだとしたら、人間にとって死は、どんなに動物の生き死めいた、たやすいことになるだろう。死んでしまった。どこに求めても、もうその生きた姿は、その人を忘れない者の心のなかにしかない。そこがつらい。
 子供をなくした須美子の手をかたく握って、伸子はやっと、
「しっかりしてね」
ということができただけだった。
 死が窮極には、生のなかにしか――生きているものにとってしか存在しないという事実は、何と意味ふかいだろう。伸子はしみじみと、その点について考えるのだった。死んでしまったものにもう死はない。死が生きられているものであるということ、生の価値にかえられて生きつづけられるものだということ。死にようということが、つまりはその人の生きようでしかない。死さえもそのうちにつつむ生の事実は何と豊富であり、厳粛だろう。その生のうちに、社会が存在し、階級が存在する。伸子は、生の厳粛さとして、もし神を信じるものなら、人間のよりよい人生への奮闘を肯定しないではいられないはずだと思うのだった。事実はそうでない。イタリーの法王は、現代の十字軍として反ソ十字軍をよびかけている。そして、キリストの甦りという、彼らにとって基本的な奇跡が、マグダラのマリアというイエスを熱愛した一人の女のはげしい生の欲望を通じてでなければ伝説として生れることさえできなかったのだという、そのきびしい生の肯定を、人さし指に指環をはめた自分たちの手でけがしている。
「さ! ぶこ! 下へ行ってコーヒーでものんで来よう。こんなにしていちゃ、しかたがない」
 素子は、伸子の両手をひっぱって、寝台からひきおこした。伸子は、すなおにされるままになった。
「着かえて来るから、その間に顔でもあらっておきなさい。いいかい?」
 伸子は浴室へはいって、水でゆっくり顔を洗って来た。そして、口紅のスティックを出そうとしてハンド・バッグをとりあげたら、その下から、さっき帳場でうけとって来たままだった紙片があらわれた。ああ、忘れていた、と伸子は思った。そして、フランス風の曲線的な書体で、大きく書かれている鉛筆の字をよんだ。
「ムシュウ・マスナガ。電話、エトワール2957――61。十時――十六時。」
 何のことだろう。マスナガ――増永――
「ああ、そうか!」
 いよいよ佐々のうちのものがマルセーユにつく日がわかったのだ。伸子は、こうしていられないという気になった。紙きれをもって、素子の部屋へはいって行った。
「ちょっと。いよいよよ。さっきの紙きれね、増永さんが連絡しろ、ということだったわ」
 伸子の顔の上に、開けようのわからないドアの前へ立たされた人のような表情があらわれた。



底本:「宮本百合子全集 第七巻」新日本出版社(第一部、第二部)
   1980(昭和55)年10月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
   「宮本百合子全集 第八巻」新日本出版社(第三部、資料)
   1980(昭和55)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十三巻」河出書房(第一部、第二部)
   1951(昭和26)年9月発行
   「宮本百合子全集 第十四巻」河出書房(第三部、資料)
   1951(昭和26)年11月発行
初出:「展望」筑摩書房
   第一部:1947(昭和22)年10月〜1948(昭和23)年8月号
   第二部:1948(昭和23)年9月〜1949(昭和24)年5月号
   第三部:1949(昭和24)年10月〜1950(昭和25)年12月号
      (1950年3月号は休載)
   資料:1949(昭和24)年8、9月号
※筑摩書房からはじめて単行本化されるに際して削除された、第三部のはじめの二回分を、このファイルには「資料」として
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