ゥらのちはいわば衆目の目ざすところとなっていて、その歴史との奇妙なくいちがいや、文学との奇妙な離反の状態に、公然の疑問はかけられていないように見える。伸子はその状態に質問を感じずにいられないのだった。文学と絵画との頂点の向きがあんまりちがっていた。パリでは絵画の芸術至上性が誇大されていてその世界的な市場性が懐疑されなさすぎるようだった。
伸子はパリへ来てから、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいたときより素子との心のへだたりを忘れた。素子はパリへつくとすぐ、ベルリンにいたときそうであったようにタバコに興味を示した。通《つう》の吸うものとされている「マリラン」を試みたり、「|ばらの花びら《ローズ・ペタル》という名をつけられていて、吸口の金箔の上へ深紅色のばらの花びらを巻きつけたエジプト・タバコ――それは、素子のあっさりしたスーツ姿には似合うところがなかった――を見つけ出したりしているのだった。ウィーンで、鞣細工店のショウ・ウィンドウを見おとさなかったように、パリで、素子の金をかけない道楽は柔かい絹のネクタイの、気に入った意匠のものを見つけて、一本二本と買うことだった。それらのネクタイのあるものは素子が自分でつかおうとする分であったし、あるものはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の友達や教師にみやげにするために見つくろわれた。素子のために送金そのほか連絡係をしていてくれる東京の従弟の分として選ばれることもあり、時にはまるで誰にというあてもなく、しかし、いつか、どこかにそれをおくるひとが現れでもするかのように、気の利いた水色と白のこまかな市松織のネクタイが買われたりした。素子のネクタイ蒐集は、ウィーンで買ったオリーヴ色の小鞄にしまわれていた。パリの六月の長い金色の夕暮が、あけはなしたバルコンから斜かいに三角の光のよどみ[#「よどみ」に傍点]を壁紙の裾にとどめているような刻限、また夕飯に出てゆくまでのひとときを素子はよくベッドの上にころがって、ネクタイを眺めなおしていた。だまって、あれからこれへと手にとって、仰向いている目の前にかざして眺めたり、そのうちに起きかえって、自分がそれまでかけていたのをとって、新しい一本ととりかえてみたり。――それは、男のパイプ趣味とはちがった。女が半襟だの紐類だの小物に示す愛情の情景だった。
道楽のない伸子は、となりに並んだ自分のベッドに腰かけてその様子を見ていたり、ときには、上着をとって、ブラウスとスカート姿で、ころがっている素子にくっついて同じベッドにかけ、素子の蒐集の中から伸子に気に入るのをよりわけたりした。そんなとき、伸子は熱心に、たった一人の相手として、素子に、あれやこれやの野暮な疑問[#「野暮な疑問」に傍点]を溢らせるのだった。伸子とすれば素子だけが一番自然に話せる相手だった。少くとも素子は、伸子と同じモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の一年半のなかから来ていることだけは確実だったから。
氷を当てて、素子はいい心持そうに熟睡していた。そっとしてバルコンのところに坐っていた伸子は、上体をひねって、眠っている素子を見た。素子は、おたふく風をひいた患者のように、頭の上に白い布の結びめを立てて、こっち向きに眠っている。熟睡している素子の顔つきはあどけなかった。軽く顎をだすようにして、氷嚢をくくりつけている白い布と純白のシーツの間から痛みがやわらいでほんのり赤みのさして来た目鼻だちをのぞかせて眠っている。それは、かたい眠り、と云われている深い眠りかただった。そんなにして眠っている素子をしげしげと眺めることは伸子に珍しかった。清潔に、無心に眠っているものを見ているときのやさしさで、伸子は何となしほほ笑んだ。
そのほほ笑みは、しかし、段々本式の笑いにこみあげて来て、伸子は体をバルコンへ向け直しながら声をしのんで大笑いした。こんなにして眠っている素子が、メトロのステーションで「畜生!」と舌うちしたときの表情や「尻を撫でやがった!」とまるで自分に女の後つきがあることをそれで発見したように言った言いかたを思い出すと、伸子は滑稽でたまらなくなった。その滑稽さのなかには伸子の気をくつろがせるものがある。パリの物ずきな男が、素子のなかに女を感じて奇襲したやりかたは、げび[#「げび」に傍点]ているが、伸子はそこにいやらしさというよりむしろ諧謔的な、風のいたずらめいたものを感じた。素子が自分の女であることに衝撃《ショック》されたのは何とおかしくて、然し、自然なことだろう。
素子が目をさましたときは、静かな日曜日の午後ももう夕方に近い時間だった。
「ぶこちゃん」
「どうした? すこしは、よくなった?」
伸子は寝台へよって行って、とけてしまった氷嚢をどけながら、素子の鼻のあたまにちょ
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