A伸子はやっぱり、自分は自分だけで、野暮なまま、追究心にかられたまま――心にやすみのない状態でいたかった。それらの人々が、パリの生活や気分をどうたのしみ、どのように居心地よく友人をつくり自分たちの日常をはこんでいるにせよ、伸子はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の一年半の生活の中からパリへ来ているのだった。その間には弟の自殺ということもあった。伸子の心には、その人たちの気持とちがう多くの要素がある。伸子がパリの生活を経験することでもし何かを学ぶことができるとすれば、それはつづまるところ、伸子が伸子として生活と心のなかにもって来ているそのみんなとちがうと自覚されている何かを追究すること以外にありようなく思えるのだった。
名刺をもらって二三日たった晩、素子が化粧台のところで、
「これ、ほったらかしといて、いいのかい?」
名刺を指にはさんで、伸子にふってみせた。紫がかった臙脂色にこまかい模様のある、やすものの部屋着をきて、寝台に腰かけている伸子は、
「――どうする?」
と、素子を見てききかえした。
「わたしは失礼しちゃおうかと思うんだけれど、わるいかしら……」
素子は、そういう伸子の顔を暫く眺めていたが、
「ぶこちゃん次第さ」
と云った。
「わたしね、反抗しているのよ、日本の人がこれまでパリとかフランスとかいうと、いやにディレッタントになっちゃって、それが通《つう》みたいになっているでしょう。わたし、それじゃちがうと思うの。曲線一つくらべてみたって、フランスは鋼《はがね》の唐草だと思うわ。その勁《つよ》さに、はじきのけられて、ディレッタントというポーズが出来るんだと思う、わたし、そういう修正は、ほしくない」
そう云って、伸子は考えていた。
「それにパリにはフランス料理のほかに妙なムソリニ式マカロニ料理だの、何とか大公式|羊の焙肉《シャシュリーク》(コーカサス料理の名)だのっていう料理があるでしょう。こっちの文学者のなかにだって、案外そういうものが御愛好って人もあるにちがいないのよ。わたしには、とてもその見わけがつかないもの」
伸子は肩をすくめて、
「わたしは、やっぱり、ぶきっちょう[#「ぶきっちょう」に傍点]で、足くびの太いモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]からの小熊でいい」
と云った。
一九一七年以来、パリには象徴派の女詩人ギッピウスやバリモント、ブーニンその他の亡命作家がいた。もとの大公だの貴族だのと云われるグループとこれらの亡命文学者たちのして来たことは、ソヴェトの新しい社会建設への誹謗と、しつこい反革命運動しかなかった。自分からすてた故郷に対してたちきることのできない執着を、現実にたった理解へ高めるかわりに、これらの人々はあらゆる熱情や条理を失った猜疑や怨み憎みに表現していた。そういう発言は、パリを中心にますます盛に活動しはじめている各国のソヴェト同盟への侵略計画、ソヴェト社会を崩壊させようという意図へのうってつけのたきつけとなっているのだった。一昨年の秋、革命十週年記念日のために、国賓として招待されたが、来られなかったロマン・ロランはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊へ挨拶を送った。ロマン・ロランのこのソヴェト承認はパリの亡命作家やソヴェトに悪感情をもっている知識人たちを逆上させ、ブーニンとバリモントの署名によるロマン・ロランへの抗議が発表された。それに答えたロランの詳細な手紙が翻訳されてモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の「文学新聞」へのせられていたのを、伸子は翌年になってから長いことかかって読んだ。ロマン・ロランはその手紙の中で何と懇切に、しかし確乎と云っていたろう。「あなたがたは、何物をも知ろうと欲しないし、またこの新社会については何も見ようとしていない。あなたがたは、あなたがたが包囲されている環境の中では、そうすることができない」そして、具体的な実例でソヴェトの社会にすべての文化が成長していることを説明していた。文学においては「若い作家たちは輩出し、彼らは以前よりも多く、フランスにおいて出版されるよりも遙に多く出版され、読まれている」伸子は、ロマン・ロランのその文章で、デュアメルがソヴェト訪問をしたことも知ったのだった。そして、デュアメルがソヴェトの子供や青年たちの明るい生活の姿に心をうたれたと語ったということも。高踏的な詩人だと思っていたデュアメルが、心をうたれたのが、ソヴェトの子供や青年の生活であったということは、伸子にデュアメルという詩人への親しさを感じさせた。
伸子がそうして黙りこんでいるうちに、もう一度、その新聞の人がホテルへよって名刺を置いて行った。やっぱり伸子たちが外出していた間のことだった。伸子と素子とは、帰って来てうけとったその名刺を両方か
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