ノ顔を出したきりだった。その年よりは困っている伸子と、もっと閉口している男の人に同情して伸子に、一つの鎮痛のための薬の名を書いた紙きれをくれた。それをもって、伸子は寝床からひきずり出された若いひとにあやまりながらまっすぐヴォージラールまで戻って来た。薬屋だけは、一つの街に何軒という風に日曜でも店を開けている。伸子はホテルのすこし手前で薬屋が目にはいったところでタクシーを降りた。ロシア語のわかる、しかし自分からは決してその言葉を話さない運転手のタクシーにのって、日曜日には、すべてが休んでいるパリで歯医者をさがして、一時間あまり伸子は空しくかけまわったのだった。
うすよごれた白い上っぱりを着て、老眼鏡を鼻の上にずりおとした薬屋の年よりが渡してよこした袋の中をのぞいて見たら、そこには三色菫《パンジー》の花の乾したのが少しはいっていた。そのとき、伸子はその薬屋のほこりっぽい店つきとともにフランスの庶民生活にある伝統の古さを、身にしみとおるばかり感じた。風邪にはカモミユの煎薬。鎮痛には三色菫の乾した花。これもいずれは煎薬だろう。伸子は、カトリーヌ・ド・メディチの時代からパリの男や女が煎じてのんでいたにちがいない三色菫《パンジー》の乾花《ほしばな》の袋をもって、ゆっくりそれを煎じるような設備はどこにもない近代式なホテルの部屋に帰って来た。
素子は、枕のよこに時計をおいて伸子を待っていた。日曜日にたのめるような医者は見つからず、月曜まで何とか二人でしのがなければならないことを告げながら、三色菫の袋を出すとき、そういう事態を自分の無力さからのように困って、伸子は腋の下を汗ばました。素子は、歯の痛さと、もどかしさとから、逆上しそうだった。
「ベルリンにいたのに、うっかりしていたわねえ、アスピリンぐらい買っておけばよかったのに。――何かそういう薬、きいてみましょうか」
「やめてくれ」
素子は涙をこらえている眼つきで、苦しそうに総毛だちながら伸子を見あげた。
「三色菫《パンジー》なんかよこすところをみちゃ、とても安心できやしない。ごめんだよ」
寝台のわきに坐って、ぐったり投げだしている素子の手をとってしずかに撫でながら、伸子は、素子の歯痛が、たちのよくないものでないように、と絶えず不安だった。パリへ来て、やがて半月になろうとしているのに、二人の交際範囲は相変らず磯崎夫妻にとどまっていた。このパリでの極端なつき合いのせまさが、きょうのようなときに途方にくれる状態をひきおこしているとも云える。伸子はちょくちょく素子の額にさわってみた。
「熱がでていないから、化膿性のものじゃないことだけはたしかよ――大丈夫だわ、――でも、痛い?」
「きまってるじゃないか、ばかだなあ」
素子は、痛さに気をとられていて、そのことに思い及ばないらしかったが、伸子の心には自分の気持についての不安があった。パリにいる日本の人たちとの社交的なつき合いを意識的にさけているのには、伸子の意見がつよく影響していることであったから。――
ガリック・ホテルへ移って間もない或る日のことだった。外出から帰って来た伸子たちは、帳場で室の鍵といっしょに一枚の名刺をわたされた。それは、もう数年間パリに生活しているある新聞社のパリ特派員の名刺だった。この人によってその新聞の文芸欄に折々パリの文壇、画壇、楽壇の消息がのせられるのを伸子は日本にいたころから読んでいた。パリに滞在している年月が長い上に、その人に特有の気質が加ってか、彼のパリ通信は、多くの場合、ただの報道ではなかった。フランスの著名な芸術家たち、パリへ行っている日本の知名人たちとの交遊の雰囲気、友達づきあいの空気がただよう通信だった。その特徴から、いつとはなし伸子は、その人の名や特徴を記憶するようにもなっていたのだった。
帳場でわたされた名刺には、あっさりと、訪問の主旨が一行に書きつけられていた。その年は、最近の数年間に最も多く日本の作家たちがパリで落ちあったと云われているときだった。伸子がその金を旅費にして先ずモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たと同じ文明社の大規模な文学全集からの収入が、日本の作家の何人かを夫婦づれで、または友達づれで、その夏のパリに来させているのだった。
もし電話をかけるならば、そのパリ特派員の名刺には、電話番号もちゃんと刷られてある。だが、伸子は、その名刺を、ホテルの室の化粧台の上においたまま日をすごした。その人に会うことから、いつとはなしひろがってゆくいわゆるコスモポリタン風な、そして、それがパリ風だと思われている文壇的社交的なつき合いを伸子は避けたい気持があった。日本にいてさえ伸子にとってなじみにくいものだった文壇というところのつき合いが、パリにおける日本人という面から単純にされようとも
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