ソ秋水、堺利彦、西川光二郎、河上清、木下尚江、高野房次郎、沢田半次郎。そのほか、あるものは伸子が歴史上の名として知っているものであり、あるものは全く知っていない人の名だった。
「これが、日本ではじめて出た階級的な新聞さ。相当仕事をしたんだ。この発刊宣言をかいたのは幸徳秋水だよ」
 一枚一枚とめくって見て行くうちに、伸子は、歴史の流れのうちに、いろいろな人が押し流され、やがて漂流して行ってしまった姿を、まざまざと感じた。
「西川光二郎というような人が、ここに書いているなんて――不思議のようだわ。わたしの小さかった頃、西川光二郎と書いた白いたすきをかけた、髪の長い人が、何だか道ばたに立って演説しているのを見たことがあります。その西川光二郎なんでしょう?」
「そうだ。この男もしまいには無政府主義者になって妙なことになってしまった。堺も、はじめは、増税反対の社説をかいたり、幸徳秋水と共訳の『共産党宣言《マニフェスト》』の翻訳をのせて、ぶちこまれたりしていたが、根が小悧口者だから、俗化してしまった。もったいないことをしたのは、幸徳秋水だ。あの男はほんものだったね。日本で、はじめて帝国主義ということを云い出した男だ」
 山上元は、とくに伸子に見せておきたい号があるらしく、自分で平民新聞のとじこみをめくった。
「ほら、これを見なさい。面白いだろう、これが、例の有名な、レーニンが『イスクラ』で返事をかいてよこした平民新聞の『露国社会党に与える書』だ」
 ロシアへの侵入に反対している日本の社会主義者とロシアの社会党とは協力して、たたかわなければならないとアッピールしている文章だった。
「黒岩涙香や内村鑑三なんかも、日露戦争には反対したことがあったんでしょう?」
「それは、平民新聞を出す前のことだ、黒岩が万朝報で非戦論をとなえたのは。半年ばかりで、へこたれて、青年会館で演説会をやる頃には、すっかり豹変しちまった」
「内村鑑三は? あのひとは、もったんでしょう?」
「これは、大戦《グレートワア》でだめになった」
 どう駄目になったのだろう。伸子が質問のくちを開こうとしたとき、山上元の室のドアがノックされた。そのノックは、ノックしているのが日本人だと直感されるようなノックのしかただった。音と音との間にリズムのない、つづけて叩くという感じのノックだった。伸子は、もしここへ出入する日本人の誰かが入って来たらば、と当惑気味になった。
「わたし帰りますから」
と云った。
「いや」
 ドアのところまで出て行った山上元は、そのままテーブルへ戻って来た。
「もう十五分ばかりいてもかまわない」
 週刊で出されていた日本平民新聞は、一年つづいて、一九〇五年一月に廃刊されていた。最終号は赤刷りで出されているのだった。
 伸子は、はじめ考えていたよりもずっと長い時間この室にとどまっていたことを、心ないことだったと思った。
「どうもありがとうございました。めずらしいものが拝見できて――」
 もう、もとの隅っこへかえって納まろうとはせず、伸子はそろそろ帰り仕度しながらきいた。
「平民新聞には、女のひとで参加していたかたがあったんでしょうか」
「事務の方には女もいた、編輯にはなかったね」
 山上元は、自分も立ったまま、伸子が外套をきるのを、年よりの三白の眼で見守った。
「文学の方ではどうかね、日本にも少しは見どころのある女が出るようになって来たかね」
「――『文芸戦線』だの『戦旗』だの、ごらんですか」
「『戦旗』は見ている」
「若いひとはああいうところから出かかっているんじゃないでしょうか」
「うん。そりゃ、そういう道理だ」
 それから十五分たたないうちに、伸子は山上元の室を出た。そして、入口の受付けから旅券をかえしてもらい、トゥウェルスカヤをまっすぐ赤い広場の方へくだって行った。
 ホテル・リュックスから出て、一、二丁の間、伸子は、我知らず亢奮した早足で歩いた。その足どりが、次第にしずまってゆるやかになった。山上元から、伸子は複雑な感銘をうけて出て来たのだった。彼が日本の社会主義運動の長老であるということ。各国のひろい運動の経験で長年鍛えられていること。それにみじんもまがいなかった。彼の理論。動作。どれも世界のものだのに、たとえばローザについて、彼が、あれは素晴らしい女だった、と云うとき、山上元のそのまじりけない褒め言葉にかかわらず、どこかに、若い女である伸子の感覚が抵抗する微妙な明治初期の日本の男があった。山上元の日本語は活溌だけれども、語感は明治のものだった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]における山上元の存在とその周囲の日本の人たち、男のひとたちにとっては、そんなことは問題にもならない仕事があり、生活感情があるわけだった。
 途中から並木道《ブリ※[#濁点付
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