Aわるいと思った。
「おてつだいしましょう」
 席から立ちかけた。
「もう何もすることはありゃしない。ジャムをもって来るだけだ」
 ガラスの小さい入れものにはいった、つやつやした色の黄苺のジャムが出された。
「たべて見なさい、うまいよ」
 云われるとおりに、ジャムを小皿にとって、ロシア流に茶をのみながら、伸子には、そのジャムがお愛想でなしにおいしかった。たしかに上手に煮られているし、伸子たちは、正餐につく乾果物の砂糖煮のほかには、甘いものなしで暮しているのだった。
「きみは、酒をのまないのかい」
「いいえ」
「ローザは、酒のつよい女だったよ」
「ローザって、ルクセンブルグですか」
「ああ。アムステルダムの会議では、ローザが僕の通訳をしてね――あれは素晴らしい女だった。火みたいな女だった。朝っぱらから葡萄酒をのんで、いつもほろよいきげんなんだが、そういう時のあの女の頭の冴えようときたら、男がたじたじだった」
 面影がよみがえってそこにあるというような、話しぶりだった。
「わたしたちは、ひさし髪に結って、白いブラウスを着たローザの写真しか知らないけれど」
「あの女はたいしたものだった。クララもそのとき会ったが、ローザにくらべるとクララの方は、ずっと常識的な女だ」
「ツェトキンですか?」
「ああ。あれは常識的な女だ」
 伸子は、山上元の話しぶりを軟かにニュアンスの深いこころもちできいた。たたかいのうちに七十歳になったこのひとが、こんな新鮮さでローザを思いおこしていることに、伸子は心にふれて来るものを感じた。クララ・ツェトキンとのくらべかたも、男として山上元のうちにある婦人への好みが知らず知らずあらわれている。おそらく多忙なこの人にとって、まれなくつろぎのひととき、どんな公の関係もない伸子のようなものをあいてに、こういう昔話も出る、それら全体の雰囲気を伸子はよろこびをもって感じた。
「そのアムステルダムのとき、プレハーノフにもお会いになったんでしょう?」
「そうだ、そうだ」
 山上元は、両方の下瞼にふくろの出来ている三白眼で、自分の前にちょこなんとかけている伸子を、思いがけなそうに見直した。
「よく、そんなことまで知っているね」
「だって」
 おかしそうに伸子は笑った。
「書いてあるんですもの」
「そんなはずはない」
 とがめるような鋭いまっすぐな視線が山上元の瞳から射出された。伸子は山上が、「自伝」のこととごっちゃにしたのを感じた。
「『自伝』じゃありません。ほかのひとが、あなたについて書いているもののこと」
「ああ、そうか。わかった」
「アムステルダムの会場で、ロシアへの侵略戦争反対のアッピールをなすったことや、大会が戦争反対の決議をしたことや、平民新聞が戦争反対したことや――古いことは、割合しられているんじゃないでしょうか」
「うむ」
 ほんの瞬間だが、山上元の皺のふかい顔の上に遠い、とらえどころのなくなったどこかを思い出そうとするような表情が浮んだ。そのかげには、数十年の月日がたたまれているその表情は、すぐ消えた。
「きみは、日本平民新聞を見たことがあるかい」
「いいえ」
「見せてやろうか」
「ほんとに? 持っていらっしゃるんですか?」
「見せてやろう」
 再び寝台の置かれている隅へひっこんだ山上元は、伸子が予期したよりずっと短い時間で、窓ぎわのテーブルのところへ戻って来た。
「創刊号からちゃんと揃っている」
 テーブルに置かれた平民新聞のとじこみは、二十六年の古びを帯びながら、実によく保存されていて、新聞紙の端さえめくれあがったり、やぶけたりしていなかった。
「まあ、何てちゃんとしているんでしょう!」
 伸子は心から感歎した。昔、自分たちが日本で出した平民新聞をこんなに丁寧に今もなお保存しつづけている山上元の気持がわかるように思った。たまに山上元とのインタービューに成功した日本人の新聞記者は、いつも、山上元の郷愁について語った。彼が世界的な日本の革命家としてコミンターンのうちに重要な地位をしめながら、やはり心の底には日本への郷愁をもっていると書いていた。新聞記者などに会ったとき、山上元は、やっぱり伸子とのように、現在の活動にふれない話題をもつだろう。そして、平民新聞の話も出るだろう。山上元が、これほど平民新聞を可愛がっていて、云ってみれば、長年よくも世界じゅうもって歩いて来たものだが、それを日本恋しさからという風に解釈されたら、いかにも笑止千万であるだろうと思えた。このとじこみは、山上元という最も適切な解説者つきで、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に移動して来ている在外日本革命小図書館とでもいうべきものなのだった。
 伸子は、腰かけから立って、明治三十六年十一月という日づけからはじまる日本平民新聞を見て行った。幸
前へ 次へ
全437ページ中386ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング