チた。――
 東京とモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]と、遠いように思っていても、こうして、たった二週間ばかりで手紙も来るんだから……。伸子は、ひょいと体をうかすようにして手をのばし、テーブルの上から二通の手紙をとった。手紙のわきには、キリキリとかたく巻いて送られて来た日本の新聞や雑誌の小さいひと山が封を切っても、まだ巻きあがったくせのままあった。マリア・グレゴーリエヴナのところへ稽古に出かけたかえりに、伸子は例によって散歩がてら大使館へよって、素子と自分への郵便物をとって来たのだった。
 伸子は、針をさしたつくろいものをブルーズの膝の上にのせたまま、一遍よんだ手紙をまた封筒からぬき出した。
 乾いた小枝をふんでゆくようなぽきぽきしたなかに一種の面白さのある字で、河野ウメ子は、伸子にたのまれた小説の校正が終って近々本になることを知らせて来ていた。そして、春にでもなったら、京都か奈良へ行ってしばらく暮して見ようと思っているとあった。奈良に須田猶吉が数年来住んでいて、その家から遠くないところにウメ子の部屋が見つかるかもしれない、とかかれている。この手紙は、素子様伸子様と連名であった。伸子は、ウメ子の手紙にかかれている高畠という町のあたりは知らなかったが、雨の日の奈良公園とそこに白い花房をたれて咲いていた馬酔木《あしび》の茂みは、まざまざとして記憶にあった。春日神社の裏を歩いていたら古い杉林の梢にたかく絡んで、あざやかに大きい紫の花を咲かせていた藤の色も。その藤の花を見た日、伸子は弟の和一郎とつれだって石に苔のついたその小道をぶらぶら歩いていた。
 ウメ子の手紙を封筒にもどして、伸子はもう一通をとりあげた。ケント紙のしっかりした角封筒の上に、ゴシックの装飾文字のような書体で、伸子の宛名がかいてある。さきのプツンときれたGペンを横縦につかって、こんな図案のような字をかくことが和一郎のお得意の一つだった。その封筒のなかみは、泰造、多計代、和一郎、保、つや子と、佐々一家のよせがきだった。つや子が、友禅ちりめんの可愛い小布れをはってこしらえた栞《しおり》がはいっていた。「今日の日曜日は珍しく在宅。一同揃ったところで、先ず寄書きということになりました。」年齢よりも活気の溢れた泰造の万年筆の字が、やっぱり泰造らしいせわしなさで、簡単に数行かいている。「近日中に母はまた前沢へ参る予定」――。
 つぎの一枚は、多計代の字で半ば以上埋められていた。伸子はその頁の上へぼんやり目をおとしたまま、むかし父かたの祖母が田舎に生きていたころ、多計代の手紙を眺めては歎息していたことを思い出した。「おっかさんは、はア、あんまり字がうまくて、おらにはよめないごんだ」と。その祖母は、かけ硯《すずり》のひき出しから横とじの帖面を出しては、かたまった筆のさきをかんで、しよゆ一升、とふ二丁と小づかい帖をつけているひとだった。こうやって、便箋の上から下まで一行をひと息に、草書のつながりでかかれている母の手紙をうけとると、伸子も、当惑がさきに立つ感じだった。簡単に云えば、伸子に母の手紙はよめないと云えた。それでも、それは母の手紙であったから、伸子は読めないと云うだけですまない心があったし、よめないまんまにしておいた行間に、何か大切なことでもあったりしたらという義務の感情で、骨を折るのだった。
 さっき一遍よんだとき、読めなかったところをあらためて拾うようにして、その流達といえば云える黒い肉太の線がぬるぬるぬるぬるとたぐまっては伸び、伸びてはたぐまるような多計代の字をたどって行った。伸子は、こまかくよむにつれてはりあいのないような、くいちがっているようなきもちになった。そのよせがきには動坂の人たちが、食堂の大テーブルを囲んでがやがやいいながらてんでに喋っているその場の感じがそのまま映っているようだった。その和一郎にしろ、先月、伸子がきいたオペラについてモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の劇場広場のエハガキを書いてやったことにはふれていないで、今年は美術学校も卒業で卒業制作だけを出せばいいから目下のところ大いに浩然の気を養ってます、と語っている。泰造はいそがしさにまぎれてだろう、伸子が特に父あてにおくったトレチャコフ美術館の三枚つづきのエハガキについて全く忘れている。
 多計代の文章の冒頭にだけ、この間は面白いエハガキを心にかけてどうもありがとう。一同大よろこびで拝見しました、とあった。けれども、それはいつ伸子が書いたどんなエハガキのことなのか、そして、どう面白かったのか、それはかいてなかった。膝の上にいまこの手紙をひろげている伸子が、もし、それはどのエハガキのことなの? ときくことが出来たとしたら、多計代はきっとあのつややかな睫毛をしばたたいて、ちょっとばつの
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