ニひきつけて感情を動かされてゆく癖がないだけだった。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へついた翌日、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]芸術座を見物したとき、瀬川雅夫は、幾たびカチャーロフやモスクビンが歌舞伎の名優そっくりだ、と云って賞《ほ》めただろう。伸子にとってそれは全く不可解だった。カチャーロフと羽左衛門とがどこかで同じだとしたら、わざわざモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来て芸術座を観る何のねうちがあるだろう。
 秋山宇一が、コーカサスの美女は、日本美人そっくりだ、とほめたとき、伸子がその言葉から受けた感じは、暗く、苦しかった。エスペラントで講演するひとでさえも、女というものについては、ひっくるめて顔だちから云い出すような感覚をもっているという事実は、それにつれて、伸子に苦しく佃を思い浮ばせもすることだった。駒沢の奥の家で一時しげしげつき合いそうになった竹村の感情も思い出させた。竹村も佃も、それが男の云い分であるかのように、編みものをしているような女と生活するのは愉しい、と云った。編みものをしたりするより、もっと生きているらしく生きたがって、そのために心も身も休まらずにいる伸子にむかって。――素子にしろ日本の習俗がそういう習俗でなかったら、もっと自然に、素子としての女らしさを生かせたのに――。
「自分で、日本のしきたりに入りきれずにいるくせに、日本人病なんて――。おかしい」
と伸子は云った。
「矛盾してる」
「――ともかく、さきへ手をあげたのは、わたしがよくなかった。それはみとめますよ」
 思いがけない素直さで素子が云い出した。
「実は、幾重にも腹が立つのさ」
「なにに?」
「先ず自分に……」
 そう云って、素子は、うっすり顔を赧らめた。
「それから、ぶこに――」
「…………」
「ぶこが、どんなに軽蔑を感じているかと思ってさ――腹んなかに軽蔑をかくしているくせに、なにを優等生|面《づら》して! と思ったのさ」
「軽蔑しやしないけれど……でも、あんなこと……」
 自分の前に来て立った素子を見あげて伸子はすこしほほえみながら涙をうかべた。
「ここのひとたちの前から、まさか、かけて逃げ出さなけりゃならないような暮しかたをしようとしてやしないんだもの――」

        六

 壁紙のないうす緑色の壁に、大きな世界地図がとめてある。伸子はその下の、粗末な長椅子の上で横むきに足をのばし、くつしたをつくろっている。女学生っぽい紺スカートの襞《ひだ》が長椅子のそとまでひろがって、水色ブルーズの胸もとに、虹のような色のとりあわせに組んだ絹紐がネクタイがわりにたれている。
 すぐ手の届くところまでテーブルがひきよせてあった。日本風の紅絹《もみ》の針さしだの鋏だのがちらばっていて、そのかたわらに一冊の本がきちんとおいてある。白地に赤で、旗を押したてて前進する群集の絵が表紙についていた。「世界を震撼させた十日間」ジョン・リード。ロシア語で黒く題と著者の名が印刷されている。その本はまだ真新しくて、きょうの午後から、伸子の語学の教科書につかわれはじめたばかりだった。
 薄黄色いニスで塗られた長椅子の腕木に背をもたせて針を動かしている伸子の、苅りあげられたさっぱりさが寂しいくらいの頸すじや肩に、白い天井からの電燈がまっすぐに明るく落ちた。伸子はその頸をねじるようにして、ちょいちょいテーブルの上へ眼をやった。向い側の建物の雪のつもった屋根の煙突から、白樺薪の濃い煙が真黒く渦巻いて晴れた冬空へのぼってゆくのが見えた部屋で、マリア・グレゴーリエヴナが熱心と不安のまじりあった表情で、新しい本の第一頁を開き、カデットとか、エスエルとかいうケレンスキー革命政府ごろの政党の関係を説明してくれた顔つきが思いだされた。そういういりくんだ問題になると、伸子の語学の力ではマリア・グレゴーリエヴナの説明そのものが半分もわからなかった。針に糸をとおしながら、伸子はあっちの窓下の緑色がさのスタンドにてらされたデスクで勉強している素子に声をかけた。
「あなた、ちかいうちに国際出版所《メジュナロードヌイ》へ行く用がありそう?」
「さあ……わからない」
「行くときさそってね」
「ああ……」
 カデットとかエスエルとか、そのほかそういう政治方面の辞書のようなものが必要になって来た。
 伸子は、気がついて、保か河野ウメ子かにたのんで日本語のそういう辞典を送ってもらうのが一番いいと思いついた。日本でもそういう本はどんどん出版されていた。言海はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へももって来ているが、社会科学辞典がこんなに毎日の生活にいるとは思いつかなかった伸子だった。あんなに用意周到だった素子も蕗子もそのことまでにはゆきとどかないで来てしま
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